加賀乙彦さんの信仰1,2)

  • 1) 加賀乙彦さん(本名小木貞孝1929‐2023)についてのNHK「こころの時代」(2005)が、2023年6月に再放送されました。それによりますと、

 ・・・・加賀さんの「宣告」(註1)という小説を読んだ遠藤周作さんは、「君のは無免許運転だ」と。また「キリスト教と仏教」という講演会を一緒にした北森嘉蔵さんという、「神の痛みの神学」の著者でプロテスタントの牧師さんが、講演後の茶飲み話の時、僕からそっぽを向いていた。「日本の知識人というのは、山を遠くから眺めているだけで、絶対に登ろうとしない。そういう人が一杯いますなー。山というのは登ってみなければわからない。宗教も同じ。宗教の知識をごまんと積んでも頂上には行けないんですよ。遠くに見えるけれど。しかしその頂上に登るという行為それ自身が宗教なんですよ」と言われた・・・・。

 読者の評価の高い作品でしたが、遠藤さんや北森さんのような〈生え抜きのクリスチャン〉から見れば不満が大きかったのでしょう。「真の信仰とはなにか」について模索を続けています筆者にとって看過できない問題ですので、今回取り上げました。

註1内容:(新潮社の書誌情報から)T大を卒業した楠本他家雄は、自堕落な生活を続けた挙げ句、バーで証券会社の外交員を絞殺する。その楠本は拘置所に入ってからカトリックに回心し、彼の手記に感動した心理学を専攻する女子学生と親密な文通を始めていた。淡々と過ぎて行く日常のなか、連続女性暴行殺人犯の砂田の死刑が執行される。死を宣告されて独房で過ごす青年の、苦悩する魂の劇を描く(バー・メッカの殺人事件の犯人正田昭がモデル。正田は慶応大学卒)。

 筆者は前回の「こころの時代」も視聴しました。その時、信仰についてとても違和感を感じ、ブログで次のように書いています。

         中野禅塾だより (2015/11/10)

 加賀乙彦さんにとって神仏とは

 加賀乙彦さん(1929-2013)は作家。精神科医時代に出会った死刑囚たちを描いた小説「宣告」では、当然、信仰の話にも及んだ。その時、遠藤周作さんに「神はいないと疑っているようでは、無免許運転のキリスト者だね」と言われ、「グチャット頭を殴られた感じで何も書けなくなった」。現在、17世紀に日本人として初めてエルサレムの地を踏んだペトロ岐部の生涯について執筆中。

前回お話した津村節子さん(註2)の質問に対する加賀さんの答え:(以下、「愛する伴侶を失って」集英社文庫より)

津村さん:(亡くなられた)奥様にあちらで会えると思っていらっしゃいますか?

加賀さん:会える。

津村さん:あちらの世界があると思っていらっしゃる?私はどうしてもそうは思えないんですけれども。

加賀さん:あるかどうかわからない。わからないけれども、あるということに賭けなさい。人は”無限”が何であるか知らないけれど、無限が存在することは知っているでしょう。それと同じで、「人は神が何であるかを知らないでも、神があるということは知ることができる。信仰によってわれわれは神の存在を知り、天国の至福においてその性質を知るであろう(パスカルの「パンセI」より)」と。けれども、キリスト者は自分たちの信仰を理由づけることはできません。理由づけることができない宗教を公然と信じている。

筆者のコメント:なんとも歯切れの悪い対話だと思います。加賀さんは、なんとかして神の存在を信じよう、「信じている」としているようです。「(あちらの世界が)あるということに賭けなさい」とは!ちなみに、「無限がなんであるか知らないけれど、無限がの存在することは知っている」ことと、「人は神がなんであるかを知らないでも、神があるということを信じることはできる」ことには、論理学的には何の関係もありません。

註2 津村さんは亡くされたご主人吉村昭さんの喪失感に苦しみ、友人の加賀さんに尋ねた時の対話です。加賀さんも奥さんを亡くしています。

 いかがでしょうか。「信仰とはなにか」を模索している筆者にとっても、加賀さんのこの態度はとても奇妙なものです。ちなみに、筆者の体験から言えば、いくら仲の良かった夫婦でも、〈あちら〉で再会できるという保証はないのです。

 最近、この番組が再放送されました。NHKは重要視しているためでしょう。そこでここでは、改めて加賀さんの信仰について考えてみたいと思います。

2)  幼児洗礼を受け、もの心着いた時から教会に通ってきたクリスチャンたちは、神の存在に疑問を持ったことはないのでしょう。遠藤周作さんもその一人です。たしかに遠藤さんは病気のあまりの苦しさに「神などない」と言ったとか。しかし、それは熱い信仰があったればこそのわがままでしょう。これに対し、加賀乙彦さんのように途中から信仰に入った人が、無理にも「神を信じる」と思うのでしょう。

 加賀さんはずいぶん後になって、

・・・・どうしてもキリスト教には疑問の点が多く、それらについて聞くために、親切な神父を軽井沢に招いてキリスト教に関する疑問を次々にぶつけた。加賀さんの質問は、「天使っていうのは本当にいるのか。天使が腕の他に翼をつけてるっていうのはおかしいじゃないか。解剖学的にあり得ない」 とか、「悪魔はいるのか。悪魔の耳はなぜあんなに尖っているのか」というような、ずいぶん幼稚な(本人の言葉)ものもあったそうです。それに対する神父の答えは「そうだけど、人間の解剖学を知らない画家が最初に描いて、そのためにああいう形ができちゃったんだろう」。

・・・・すると3日目の昼頃になると、もう質問することが無くなった。すると急に気持ちがさーっと明るくなった。身体が軽くなってフワフワ-っとなんか良い気持ちになった。「神父様どうも気持ちがおかしい。急に明るくなって、軽くなって何もかも疑問が無くなったような気がします。家内も同じだった。その時初めて神父さんが「受洗してもいいでしょう」と言った。ちなみにキリスト教新聞のインタビュ―でも加賀さんは、この神父との対話について言っていますが、〈神秘体験〉があったことには触れていません。

 加賀さんは、

・・・・人はよく「神が実在する証拠を見せてくれ」と言いますが、実は逆なのです・・・・親鸞の聞き書き「信ずべし。信心一途にあるべし(歎異抄)」の意味が初めてわかった。そして聖書の中にも「汝の信仰 汝を救えり(ルカ伝7章50節)」とあります・・・・と言っています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。これだけの体験が、はたして本当に加賀さんの信仰を180度変えたのか、筆者にはよくわかりません。それにパスカルや親鸞の言ったことを根拠としてどうするんでしょう。信仰はあくまでも本人の問題なのです。何度もお話していますが、長年、生命科学の研究に携わってきた筆者はある時、「生命は神によって造られたに違いない」とありありと実感しました。筆者の信仰は、他人の言ったことを根拠とはしていないのです。しかも、〈宣告〉は加賀さん50歳の時の著書で、受洗の前です。それゆえ、遠藤周作さんや、北森嘉蔵さんの疑問ももっともでしょう。

2 thoughts on “加賀乙彦さんの信仰1,2)”

  1. ご著書を送って頂きありがとうございました
    早速三冊とも拝読しまして、さらには橋田教授の正法眼蔵釈意も拝読しました(主に第一巻)
    今では各本とも愛読書になりました。

    おかげさまで色即是空 空即是色、只管打座、而今をはじめさまざまな意味がわかり、又、道元の教えを日常において実践された良寛さんの素晴らしさを知ることができました。

    私はこれまで儒教の特に陽明学を独学で学んできたのですが、どこか心の底で”なにか違う”という不信感が拭いきれず迷っておりました。(原因は浅学な私にあると思います)
    この度、それが払拭されましてなんだか目の前の霧が晴れた気分です。
    大事なのは心ではなく行というのが大きかったと思います

    素晴らしい本を上梓して頂きありがとうございます
    (記事と別趣旨のコメントにて失礼致しました)

    1. 柴田様
       喜んでいただいて嬉しく思います。「わかる」と奇跡が起こることを第一巻の「あとがき」に書きました。
      どうか併せてこのブログシリーズもお読みください。著書以降、学んだことが書いてあります。

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