「中野さんのブログは他人に対する批判が多いですね」と言われました。熱心に読んでいただいている人ですから、もちろん好意的な発言です。筆者の回答は「比較しなければ初学の人にはわかっていただけないから」です。そこで今回は併記の方法を取ります。
「無門関(註1)」第四十一則達磨安心
達磨面壁す。二祖(註2)雪に立つ。臂(ひじ)を断って云く、
「弟子は心未だ安からず。乞う、師安心せしめよ」。
磨云く、「心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん」。
祖云く、「心を覓(もとむ)むるに了(つい)に不可得なり」。
磨云く、「汝が為に安心し覓(おわ)んぬ」。
筆者訳:達磨は日々面壁坐禅をしていた。(後の)二祖は入門を乞うために雪中に立ち、自ら臂を切断し、達磨に差し出して言った。「私は、心が未だ不安です。どうか私のために安心させてください」と。すると達磨は、「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから」と答えた。
註1 無門慧開(南宋時代1183-1260)によって編纂された公案集。
註2 俗名神光。後に入室を認められて二祖慧可となった(487-593)。
以下は千葉県曹洞宗西光寺無玄邦光師のブログです(詳しくは直接お読みください)。
・・・「安心」とは、言うまでもなく「悟り」によって得られる一切の迷いから解放された大自由の心、これを「安心」というのです。この公案の狙いはその「安心」の”実体”を悟ることにあるのです。さて、ではこの公案はどう看ればよいのでしょう。達磨が「その”心”をここに持って来い」と言ったのに対して、二祖が「心不可得」(心が見付けられませんでした)と言いました。その「心不得」の一言にこの公案の答えが秘められています。では、その一言をどう解釈すればよいのでしょう。「心不可得」を単に言葉の意味の上から理解しようとしてもまったくダメです。公案はすべてそうですが言葉に囚われないことです。一切の分別と理屈を超えたところの”もの”を見付けるのです。その「もの」とは、「心不可得」という言葉”そのもの”です。「言葉そのもの」とは、その言葉自体の「実体」を意味します。”そこ”が分かるかどうかが勝負です。分別や理屈で考えていたのでは公案は絶対に分かりません。ではその「心不可得」”そのもの”の「実体」とは一体何でしょう。それは「無心」です。無心とは心が無いと書きますが、文字通り「心」を無くした境地のことです。「心不可得」(心が得られません)と一心に成りきって言葉に出して言うとき、言葉の意味を考えながら言う人はいません。
言っている瞬間は「無心」の筈です。”そこ”です。「そこ」に答えがあるのです・・・
筆者の解釈:要するに無玄師はこの公案を「無心」に結び付けたかったのでしょう。つまり、・・・「心不可得」という一言を慧可は「無心」で言った。その「無心」こそ「心の実体」だ・・・と。しかし、筆者そうは思いません。もしそうなら、達磨大師が「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから」と言うはずがありません。前後関係が逆です。じつは慧可は、「心をここへ持ってきなさい」と言われて「ハッ」と気付いたのです。いままで、「心、心」と頭で考えていただけだったのを、初めて自分の「心そのもの」に気づいたのです。第一、「心不可得」と言ったのは一瞬ですから、「無心」なにもあるはずがありません。無玄師もそこが気になったので、後で「心不可得」(心が得られませーん)←無心で特に大声で」と付け加えざるを得なかったのでしょう(太字筆者)。いかがでしょうか。