中野禅塾だより (2015/12/8)
禅寺と大蛇の話
皆さんは次の不思議な話を読んでどのように感じますか?「 ’11年版ベスト・エッセイ集 『人間はすごいな』(文芸春秋刊)」に犬木莉彩さんが書いている話です。
犬木さんの実家は熊本県人吉市にある禅寺。学生時代の盛夏。何気なく境内への登り口に目をやると、石段の最下段でひも状の物体がうごめいていた。駆け下りて見てみると、なんと長さ2メートル数十センチ、太さ10センチもある大蛇!体にはすり傷もあり、見た目にもかなり弱っていたが、何とか階段を登って行きたい様子。段を越えられず、ずり落ちることも。犬木さんはただひたすら上を目指す姿に心打たれた。少しでも力になりたいと日傘を指し掛け、動きの先に打ち水をしてやった。大人の足なら5分も掛からないところを蛇は2時間も費やし、ついに50段を登り切った。さらに驚いたことに、蛇は石段から30メートル先にある本堂に向きを変えて進み、ついには本堂によじ登ろうとした。慌てて住職である父親を呼んだ。父は顔色を変えずに「そっとしておいてやってくれ」と一言だけ残し、奥へ帰って行った。本堂の入り口には30センチほどの石段があり、蛇は何度もずり落ちたがかなりの時間をかけ、ようやく本堂の中に入ることができた。
そして、静かに本尊の前までやって来ると、蛇の動きがピタリと止まった。そこはひんやりと涼しかった。2時間ほどして蛇は動き始め、ゆっくりと本堂を一周し、再び来た路を引き返し始めた。心なしか蛇の体の動きが軽く感じられた。それでも石段を数段転げ落ちたりしながらやがて視界から消えた。ほとんど一日がかりの仕事だった。
翌朝、早くから近所が騒ぐのを聞いて胸騒ぎがし、下の小川に駆け付けると、予感は的中した。あの蛇だった。流されないようにと岩に体を巻き付けて死んでいた。水に漬かったまま数時間たったせいか、身体は数倍にも膨張し、動物園の大蛇にも劣らない大きさになっていた。しかし表情は非常に安らかだった。人がいなくなってから両親と三人で蛇を川から運び出し、蛇が必死によじ登った石段の脇にある百日紅の木の傍らに丁寧に葬り、手を合わせた・・・
・・・二十数年後の私は仕事や家庭に追われ、日々の生活は自分のことだけで精一杯になっている。それでも毎年夏になると、あの暑くて長い一日を思い出し、「私は優しさを忘れていない?」と自問する・・・
犬木さんのこの不思議な体験を読んで、読者の皆さんはどう思いますか?現代の良寛と筆者が尊敬する村上光照師は蛇にも優しく語り掛けるそうです。筆者は「無門関」第一則「趙州狗子」を思い出します。すなわち、
・・・僧が尋ねた「狗子(いぬ)にも仏性があるでしょうか」。趙州禅師は答えた「無い」・・・
趙州の真意はいずれお話しますが、今回は言葉通り、「狗子(いぬ)にも仏性があるでしょうか」との僧の質問に対し、「無い」との答えだけに注目します。やはり犬木さんの見た光景は、蛇にも仏性があることの証拠ではないでしょうか。
禅寺と大蛇の話(2)
以前のブログ「禅寺と大蛇の話」について、著者の犬木さんからメールをいただきました。それによりますと、「ベストエッセイ」に書かれた犬木さんの記事を読んで、「お世話になっている先生方が『雨月物語・今昔物語を想起させる』と感想を述べられた」とか。それは筆者と受け取り方が違いますので、もう少し説明させていただきます。雨月物語や今昔物語はフィクションですが犬木さんの体験は真実だと思います。
あの大蛇は、犬木さんの実家である禅寺の本堂に神気を感じたのだと思います。蛇も(犬も魚も虫も、そして山も川も木も草も)人間と同じ神の創造物です。その意味で蛇も人間とまったく対等の「いのち」なのです。死期を悟った蛇は、禅寺の方向に神の世界を感じ、必死になってそこへ近付こうとしたのだと思います。犬木さんは大蛇の努力を見て感動されたのでしょう。筆者もそれを読んで目頭が熱くなりました。
筆者は「悟りとは神と一体化すること」と考えています。禅寺が神の世界につながる入り口だとして何の不思議はありません。筆者はいつも坐禅・瞑想を神棚の下で行っています。犬木さんの体験は、かねて持っておりました筆者のこういう考えを、まさに現実として見させていただいたのだと思います。筆者は以前、好きな植物の世話をしていて、「ハッ」と心が通じ合った気がしたことがあります。
それにしても、死んで水の中で何倍にも膨れ上がった蛇を抱きかかえ、埋葬して供養して下さった禅師のお父さん、お母さんには頭が下がります。筆者は農村出身で、カエルもトカゲも毛虫も平気ですが、蛇だけは苦手ですから。それをお手伝いされた犬木さんは、掛け替えのない禅の実体験をされたのだと思います。