仏教とキリスト教は同じ?

     仏教とキリスト教は同じ?(1)澤宮優さんの信仰

澤宮優さん(ノンフィクション作家)が「’10年版ベスト・エッセイ集 散歩とカツ丼 文芸春秋社刊」に書いています。かいつまんで言いますと(一部文章の前後や、てにおはを筆者の責任で変えさせていただきました)、澤宮さんは、

 ・・・30歳を目前としたとき、プロテスタント教会で洗礼を受けたが、長い間悩みを抱えていた。それはキリスト教が頭ではよく理解できても、僕の肌にもうひとつ合わないということだった・・・思い余って、協会の名誉牧師で文芸評論家の佐古純一郎先生に悩みを吐露した。「僕の家は浄土真宗ですし、仏教が肌に合うように思うのですが」。佐古先生は「仏教もキリスト教も同じなんだよ」と答えた・・・2年後京都広隆寺へ誘われ、小さな井戸を示し、佐古先生曰く「これはいらすの井戸と言って、いすらえるの井戸がなまったものだ。じつは秦氏が中国からキリスト教の一派ネストリウス派(中国では景教)を日本へ伝えたんだよ。その根拠がこの井戸だよ」・・・だが以後も僕は教会から逃げようとした。しかし仕事や精神的なことで行き詰ったとき、僕の足はいつしか教会へ向いていた。もう逃げられないな、と観念するしかなかった・・・

 本題に入りますと、澤宮さんは、仏教がキリスト教と同じであることの証拠として、
 1)平安時代には景教の宣教師によって漢訳の聖書が日本へ持ち込まれており、親鸞もそれを読んでいた。つまり、仏教もキリスト教の影響を受けて成り立っている。たしかに浄土真宗はキリスト教の教えによく似ている。
 2)親鸞の悪人正機説(註1)はイエスの教えの「汝の敵を愛しなさい」と意味は同じである。
 3)阿弥陀如来の阿弥陀とはサンスクリット語の「アミターユ」と「アミターバ」を漢字に当てはめたもの。前者が「寿命無量」、後者が「光明無量」という意味で、聖書の「まことの光」と「まことの命」と同じである。

(註1)歎異抄にある「善人なおをもて往生をとぐ、いはんや悪人においておや」

これらの証拠もあって、けっきょく澤宮さんは「僕はそれまで仏教とキリスト教、この二つを別物と考え、極めて浅い次元で信仰を選ぼうとしていたことを本当にに恥ずかしく思った」と言う。そして「僕がイエスという十字架を、背負ってゆくしかないなと決心したのはこの井戸を見てからだった」と言っています。

読者の皆さんは、澤宮さんのこの告白を読んでどうお考えでしょうか。もちろん信仰は自由で、その動機は本人だけのものでいいのです。
 筆者は以前、熊本城を訪れた時のことを思い出します。美しい石垣を「武者返しと言う」との説明を読んでいた隣の40代の女性が、「銀杏返しとはこのことなのね!」と興奮していました。いえ、武者返しとは石垣の構造の名であり、この城を銀杏城と呼ぶ。銀杏返しとは江戸時代の女の髪型で、3者はまったく関係がない、ということを城好きの筆者はわかっていたのです。つまりこの女性は、あちらをかじり、こちらをかじって得た知識を寄せ集めただけの、自分の「発見」に興奮しているのです。

 仏教とキリスト教は同じ?(2)

 前回お話した澤宮優さんの考えは恐らくキリスト教、仏教双方から反発、あるいは牽強付会説として無視されたでしょう(澤宮さんと同様の考えは、わが国のキリスト教信者の一部にもあります)。それに対し今回はまったく別の観点からキリスト教と仏教の一宗派の思想との類似性についてお話します。

 仏教の一宗派とは浄土系宗派、つまり、浄土宗や浄土真宗のことです。これらの宗派は仏教史において特異な地位を占めます。すなわち、仏教は釈迦の時代から今日に至るまで自力による救済を旨とし、修行僧には伝統的に六波羅蜜などの厳しい戒律が課されておりますし、坐禅・瞑想は重要な修法です。わが国の華厳宗の代表的寺院である東大寺の大仏は冥想の姿であり、真言宗の阿字観瞑想、空海が悟りを開いたきっかけとなったとされる有名な「虚空蔵求聞持法」は、現代でも高野山の奥深くで、限られた僧による厳しい修行として実践されています。もちろん曹洞宗や臨済宗などの禅道場では坐禅・瞑想が主要な修法ですね。
 これらの仏教の流れにおいて浄土思想はきわめて異質です。つまり、厳しい修行によるのではなく、「ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」と言うのですから。もちろん浄土宗の根本経典である「浄土三部経」は大乗経典のうちでも最も早く成立しました。しかし何と言っても、一切の戒律の遵守や修行を無視し、「ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えなさい」という法然の他力思想は独特のもので、法然の天才性・独創性を如実に示しています。よく言われるような、文字は読めず、高僧の教えを聞くチャンスもない当時の大衆の救済だけではないのです。貴族や武士、さらには現代人にも立派に当てはまる重要な教えなのです。そして親鸞こそ、法然の思想を正しく理解した人です。しかしその弟子たちの中にはよく理解せず、自己流の解釈をした者が多かったのです。筆者が「歎異抄は不肖の弟子たちが親鸞の考えを正しく理解していないことを『歎いた』ものであり、新しい思想などはない」と言うのはこのことです。
 ことほどさように、法然の思想は阿弥陀如来という絶対神による無条件の救済であり、まさにキリスト教におけるエホバの神、イスラム教におけるアッラーの神と同じです。その意味でキリスト教と仏教は似ているのです。澤宮さんの言うような「悪人正機説はイエスの教えの『汝の敵を愛しなさい』と意味は同じである」などの根拠とはまったく違うことがお分かりいただけるでしょう。

 それにしても、キリスト教や浄土思想の信者の中で、他力信仰の本当の意味を分かっている人はきわめて少ない、と筆者は思うのですが・・・。

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