禅の公案(3)
道元は「正法眼蔵・現成公案編」の中で「観て初めて現れる」をわかりやすい例で説明しています。
・・・麻谷山宝徹禅師、あふぎ(扇)をつかふ。ちなみに僧きたりてとふ(問う)、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚扇をつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。僧いはく、いかならんかこれ風性常住無処不周底の道理。ときに師扇をつかうのみなり。僧礼拝す。 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なれば扇をつかうべからず、つかはぬおりも風をきくべきというは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり・・・
字句通りに訳せば、
・・・麻谷山宝徹禅師が扇を使っていた。そこへ僧侶がやってきて尋ねた。「空気はどこにでも存在し、空気の存在しない場所はないというのが空気の性質とされております。しかるにどのような理由から和尚はことさらに扇を使われるのですか」と。禅師が言う「お前はただ空気が何処にでも存在することは知ってはいるが、空気が存在しない場所はないという理論をまだ知らない」。僧は言う「どのようなことが空気の存在しない場所はないという意味ですか」。これに対し禅師は扇を使うばかりであった・・・
ですね。次は著名なN師の解説です。
N師の解説:すなわち、麻谷山宝徹禅師は空気の存在しない場所はないという理論は、扇を使って初めて現実のものになるということを、無言のまま扇を使うという行為によって直接に教示した。仏教的宇宙秩序の体験、正しい伝承による活動の現実は、元来このようなものである。空気には何処にでも存在する性質があるのだから、扇を使うのは不合理であるとか、扇を使わない場合でも風を感ずるべきだとかいうのは、何処にでも存在するということについても理解せず、空気の性質についても理解してないのである。空気は何処にでも存在するという性質であるのと同じく、宇宙秩序も何処にでも存在するものであるから、仏教徒が宇宙秩序(比喩的に風という)を実践することにより・・・
たぶんN師は「仏教の教えは頭で理解するのではなく、実践してこそ意味がある」と理解したのでしょう。次の筆者の解釈と比較してください。
・・・釈迦が説き、覚者達によって正しく伝えられてきた仏法とは、この例のように、モノゴトをモノゴトとして体験して初めて真の実在として現れるという教えです。「空気はいつでも何処にでもあるから扇を使わなくてもよい」ではなく、体験して初めて風は現実として現れるのです・・・
いかがでしょうか。つまり宝徹禅師は修行僧に「空(くう)」の理論を「やって見せている」のです。なんといってもこの一節は「現成公案編」にあるのですから。前にもお話しましたが、「現成公案」とは、「すべてのモノはそれぞれあるべきようにある(公案)。しかし(見て、聞いて、さわって・・・)初めて現れる(現成)」と解釈すべきでしょう。西嶋師の解釈は常識的で、禅の公案としては成り立たないように思われます。