東日本大震災と僧侶の活動(2)
以前、東日本大震災後の被災者の心のケアに挫折した誠実な僧侶についてお話しました。あの人たちは、奈良の有名寺院のエリート僧でした。今回は、被災地そのものの僧侶たちのその後についてご紹介します。
先日の「NHK特集こころの時代」で、東日本大震災の現地の僧侶3人の、この5年間の活動を放映していました。一人(51歳)は釜石市の高台にある自分の寺から、すさまじい津波の威力を目にしていた人です。流されて助けを求める人たちに何もしてあげられなかった・・・。「遺族に『神も仏もあるものか』と言われて、そのとおりだ思いました」・・・。言いも言ったり、ですね。言霊(ことだま)と言う言葉があります。その一言で、僧侶としての根本がくずれてしまいました。あとで長女にたしなめられていましたが、それで済む話ではありません。残った寺を被災者(多い時には700人)に開放したのは当然でしょう。町は全滅したのですから。蓄えてあった米を提供したのは評価されるでしょう。しかしそれが何十俵もあったとは思えませんが。その後、地域の人の事業の再開の背中を押したり、避難住宅を訪ねて話を聞いたりしていると言っていました。
もう一人(43歳)は、被災者たちの心のケアになすすべもない自分を知り、「プロとして、宗教家として僧侶として、和尚としていろいろな意味で眼が覚めた」と言っていました。この人も「言いも言ったり」です。その後、1000人を越す地域の死者一人ひとりの経歴や遺族の思い出をまとめた冊子を作る取り組みをしているそうです。評価されることですね。
もう一人のケースは、福島第一原発の近く、最近ようやく避難解除準備地区に指定された地域にある寺の住職(41歳)です。家族は、事故後3日目に福井県へ避難させ、自身は車で2時間かかる仮住まいから毎日「通勤」しているとか。17もの府県に分かれて避難してしまった檀徒の法事のため、できるだけ訪れており、そのための車の月間走行距離は2000キロにも及ぶと。さらに、最近は、月に2回、「寺の掃除デー」を発案し、バラバラになった檀徒たちが集まって旧交を温める機会を作ったそうです。それはそれで有意義な取り組みでしょう。しかしそれを見ていて、崩壊しそうになっている信者組織をつなぎ留めるための取り組みのような気もしました。
今度の大震災で津波や火災によって失われた寺も少なくないと言います。それも含めて、檀徒がこんなに広範囲に分散してしまった現在、寺の経済そのものも危機的状況にあると思われます。
葬式など法事からの収入も激減したでしょう。これらの僧侶たちが集まって「被災地仏教会」を立ち上げたそうです。そこでの話を聞いていますと、住民のケアの問題はもちろんですが、自分たちの寺の経営再建問題のようにも聞こえました。それはそれで当然でしょうが。
それにしても、「神も仏もあるものか」との、僧侶としての資質を疑われるような言葉を吐いた人や、「プロとして、宗教家として僧侶として、今まで何をしてきたのか、気付かされました」とかっこつけて言った人など、今までの僧侶としての活動がまさに「葬式仏教」だけであったことを露呈してしまいました。いま各地で葬儀は家族葬でこぢんまりとやる家が増えています。ネット僧侶派遣事業が増えていることは、檀家制度が急速に滅んで行く一因となるでしょう。
筆者は以前、日本の仏教は形骸化したとお話しました。こんな状態になってしまった日本仏教に、いざと言う時、人々へ仏教の心を伝えることなど到底できないでしょう。浄土の教えはすばらしいのですが。
前回お話した「NHK特集こころの時代」で紹介された東日本大震災を経験した僧侶の話は、NHK「こころの時代 苦とともにありて。挑む僧侶- 被災地に希望を」で改めて紹介されました。前回報道された3人の僧のうち、「神も仏もあるものか」と言った僧は、第2回目には省略されていました。さすがにNHKも再録するのを憚られたのでしょう。その代わりに別の僧、Kさんの体験と考えが紹介されていました。Kさんは副住職として父親を助ける一方、近くの市で長く環境対策課の課長だったそうです。そして震災後つぎつぎに仮安置所に運び込まれて来る遺体の付き添いを買って出たとか(最終的に運び込まれたのは1000体近くになりました)。それは僧侶でもあるKさんなら当然の行動でしょう。
Kさんは後に名取市としての慰霊祭を行うことを進言し、実行されました。「葬儀は亡くなった人のためばかりでなく、残った遺族の心を癒すための意味がある。1回ごとに一皮ずつ苦しみが取り除かれて行く」筆者はそうとは思えません、突然大切な人を失った家族のほんどが「5年過ぎようがが悲しみが消えることはない」と言っています。そのとおりでしょう。ましてや葬式や年忌という儀式にどれだけの力があるのか、きわめて疑問です。もっと驚いたのはKさんの「葬式仏教のどこが悪いのか」の発言です。Kさんは葬式仏教の意味を取り違えているのです。葬式仏教と言う言葉は僧侶にとってまことに耳の痛いものでしょう。だからといってここを先途と手前味噌の発言をしてどうするのでしょうか。人々が日本の仏教を葬式仏教と言って批判するのは、「葬式しかしない仏教」だからです。この番組では、Kさんの言葉がかなり多くの部分を占めていました。筆者のこの感想に、Kさんは「講演もしている」と反論するでしょう。その講演の一部も紹介されていました。しかし、番組や講演全体を通じて筆者の琴線に触れるKさんの言葉は一つもありませんでした。たまたま同じ番組を見ていた友人も、同様の感想でした。
Kさんは早期退職し、お寺の隣に開設した保育園の園長として専念しているそうです。番組では「大きな被害を受けたふるさとの未来を担う命を大切にして行くため」と言っていました。しかし、筆者はそれを素直には受け取れません。寺が副業として幼稚園を経営するのはよくあることです。筆者の近所にもいくつもあります。けっしてそれを否定しません。しかし、大震災の「苦と共にあったから」ではないでしょう。彼らの生活のためです。
要するにこの番組は、「震災から立ち上がる僧侶」という「最初から結論ありき」の番組だったと思います。前回お話した、あとの二人の僧侶(誠実そうな人だったですが)の活動も、地域住民の力になるというより、「バラバラになった檀家をいかにつなぎとめるか」だったと思われてなりません。