空(くう)とは

「空」とは(1)       

 禅は宗教ではありません。モノゴトの「見かた」、つまり哲学です。私たちはふだん、「モノがあって私が見る」と考え、疑問にも思いませんね。しかしその見かたは正しいのでしょうか。たとえば、テレビ画面に映っている画像を、そのままモノやヒトだと思っています。しかし、よく考えれば、それは単なる画像であってモノやヒトではありませんね。それと同じです。私たちが見ているのはモノやヒト自体ではなく、それを映した脳内のイメージに過ぎません。「アッそうか」とお分かりいただけたら成功です。その考え方を延長したのが、唯識思想です。それについてはいずれお話しします。
 
「色即是空」、有名な言葉ですね。ちなみに正式には「色即是空 空即是色」です。これは「モノゴトのみかたには見かたと観かたの二つがある」と言っているのです。これこそ禅の要諦なのですが、前回までにお話ししたように、正しく理解していない禅師が多いのです。

  No.1で紹介したM師の解釈、

 「あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない」

は、多くの師の平均的解釈です(ためしにネットで調べてください)。なぜこのような誤りが繰り返されて来たのか。それは、これらの人達が釈迦の思想を誤解してきたからに違いありません。すなわち、

 ふつう釈迦の根本思想は、無常、縁起、無我だと言われています(異説もあります)。このうち、M師らは、無常を「あらゆるものは変化し・・・」、縁起を「すべてのものは関わりあっている・・・」と解釈したのです。しかし、じつはそれが誤りなのです(このことについては後ほどお話します)。この誤った解釈が、これまでどれほど禅をわかりにくいものにしてきたか・・・。困ったことです。

正しい解釈は、

 私たちはふだん「モノがあって私が見る」という見方をしています。それを禅では色(しき)の見かたと言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です)。「空」の観かたによれば、「私がモノを見るという体験こそが真の実在だ」と言うのです。

 このことは日本の曹洞宗の開祖道元が「正法眼蔵」ではっきりと言っています。「正法眼蔵」のハイライトは「現成公案編」です。ここに「空」の思想が書かれています。すなわち、「モノはすべてあるべきようにある(公案)。そして(人が)見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて)現われる(現成する)」と言うのです。「空の観かた」ですね。

 いかがでしょうか。M師らの解釈と明らかに異なることがお分かりいただけるでしょう。

 「色即是空」とは、「この2つのみかたでみた時、初めて、正しくモノゴトがみえる」と言うのです。「2つの異なるみかたで同時にみる」のを禅では「一如(いちにょ)としてみる」といいます。これが難しいのですが、禅の修行とはそういうものなのです。それについては次回お話しします。

空とは(2)

「モノがあって私が見る」という、常識的な見かたとは違って、「モノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という体験こそが真の実在である」と言われて、「突拍子もない考え」とは言わないでください。じつは、「モノがあって私が見る」という見かた、唯物論的な見かたが重視されるようになったのは、人間の文化史から言えば、まだ最近のことなのです。それは18世紀から19世紀にかけて起こったイギリスやドイツでの産業革命がきっかけで始まった新しいモノゴトの見かたなのです。鉄を作り、それによって紡織機や輸送機械を作り、快適に、便利に暮らすことが大きな目標になったからです。この人間の意識の変化により、「モノ」を重要視するようになったのです。このモノゴトの見かたが、社会の体制にも広がり、マルクスやレーニンのような社会主義思想が生まれました。新しい、人間尊重の考え方です。

 「空(くう)」の観かたは、東洋独創の思想ではありません。西洋でも、産業革命以前から、ドイツを中心に観念論哲学というモノゴトの見かたがありました(今でもあります)。

 「色即是空」の「即」を「すなわち」と解釈している人たちがいます。しかしそれはまったくの誤りです。「即座」の「即」、「色が即(そく)空だ」という意味です。「色」、つまりモノと「空」、つまり体験とを同一視するのが大切です。同一視とは、「一体」として見るのではありません「一如(いちにょ)」として見る。「一如」は禅独特の言い回しです。これを腹の底から理解するには訓練が必要です。「空」のモノゴトの観かた、と言われてもピンと来ないかもしれません。私たちは慣れていないからです。慣れること、それを禅の修行と言うのです。それが悟りにつながります。

 「空」の話に戻ります。「空」の観かたの特徴は、「その体験は一瞬だ」ということです。限りなくゼロに近い一瞬です。禅で「前後裁断」と言います。それが非常に重要です。なぜなら、そこには、「きれいだ」とか「きたない」、「偉い」とか「偉くない」というような「価値判断」がまったく入らないからです。きれいな花を見て「アッ」と感じる、そのままです。「きれいだ」はその後から出てくる「判断」です。「判断」とはその人や社会の価値観や、過去の苦しかった思い出や、未来への不安などが結びつかない、体験そのものなのです。生きるとは、一瞬の体験の連続なのです。このモノゴトの観かたによれば、苦しみも悲しみも、不安も入る余地がありません。禅の究極の目的が「苦しみからの解放」あるいは「心の平安」にあるとはこういうことなのです。

 私たちは常に「判断」しています。それは人間が知恵を持った時から身に付いた習慣で、生きて行く上で必要だからです。しかし、それは反面、苦しみや不安に結び付くのです。起きている時は常に判断していますから、私たちの脳は疲れているのです。だから、つまらないことで悩み、些細なことで腹を立ててしまい、しなくてもいい心配をしてしまうのです。それが正しい判断を狂わせてしまうのです。現代人はときどき頭を休めてやる必要があるのです。そして「ただしくモノゴトをみる」ように戻らなければなりません。「色」のモノゴトの見かただけでなく、「空」のモノゴトの観かたを合わせて、正しくモノゴトをみる……これがお釈迦様の言う「正見」です。

「空」とは(3)筆者の理解

 私たちはふだん「モノがあって私が見る」という見かたをしています(認識には、聞く、味わう、嗅ぐ、さわるもあるのですが、ここではすべて「見る」で代表します)。それを禅では色(しき)の見かたと言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください)。「空」の観かたによれば、私がモノを見るという体験も実在の一側面です。

 このことは日本の曹洞宗の開祖道元も「正法眼蔵」ではっきりと言っています。「正法眼蔵」のハイライトは「現成公案編」です。すなわち、「モノはすべてあるべきようにある(公案)。そして(人が)見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて)現われる(現成する)」と言うのです。「空の観かた」ですね。

「だってモノはあるじゃないか」「私がモノを見るという体験も真の実在の一側面だって?」とおっしゃる前に、まあ聞いて下さい。「空」は「ものの有る無し」を言っているのではないのです。モノゴトのみかたの問題なのです。筆者のこのブログの別のシリーズ(そもそも「五蘊皆空」の解釈を間違えているのです)で、

 ・・・・・・「般若心経」にある「五蘊」は、当初はちゃんと「人間の認識だ」と理解されていたのですが、わが国で、しかも近代になって「人間の認識」が「存在としてのモノ」にまで拡大解釈されてしまった。それが大きな誤りの元だ・・・・・・

と書きました。以下、その前提のもとにお話します。

 「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」とよく言いますね。目の前にあっても、認識しなければ「ない」のです。たとえば、ニューギニアにはセピック川という川があることをご存知の方もあるかと思います。しかし、じっさいにその川を見て「ある」と思っているのでしょうか、それとも単なる知識としてでしょうか。他人が『ある』と言っているから「ある」と思ってはいけませんね。

 もう一つ大切なことがあります。じつは、いま「私」が見ているものは、「私」の眼のレンズを通して網膜で感じ、脳で画像処理したイメージです。それは単に自分の経験の下に判断した、独自のものであり、他人のイメージとは違います。個人差のある、相対的な「モノの姿」です。つまり、「私が見ているモノ」は、真のモノの姿ではないかもしれません。

 さらに大切なことがあります。「見ている人は誰か」とうことです。〇川〇夫という「私」なのでしょうか、それとも本当の我でしょうか(私の造語で、申しわけありませんが、説明しやすい言葉なのでご寛容下さい。後ほど説明します)。じつは、モノを見ているのは「私」で、観ているのは本当の我なのです。本当の我は神(宇宙意識)につながっています。ですから本当の我が観ているモノこそ、神の眼で観ているモノの真の姿だと、筆者は考えているのです。この問題は、禅を考える上でとても重要です。

 禅の目的は、修行によって本当の我の眼でモノの真実の姿を見るようになることにあります。仏教で言う「正見」とはこのことです。

「空」とは(4)「空理論」の意味(その1)

 早いもので、このHPを開いてからもう1年経ちました。読んでくださる人、とくにリピーターの方が増えて喜んでいます。

 タイトル後半を見て「エッ」と思う前に、以前、「龍樹の空理論と禅の空理論とは違う」とお話したことを思い出してください。そうです龍樹の空理論は「原理というものはそれ自身独立して存在するものではなく、必ず他の理論に依存する」というものでした。それに対し禅の空理論は「モノゴトの観る(聞く、味わう、嗅ぐ、さわる)体験」でしたね。では「モノゴトの体験」にはどういう意味があるのでしょうか。それが今回のテーマです。
 まず、「モノゴトの体験」とは「観る人と、観られるモノの区別もない体験そのもの」、西田幾太郎の言う純粋経験です。有るとか無いとかの問題ではなく、モノゴトの観かたのことなのです。これまでの仏教家や仏教研究者が「モノはない」と誤解している「空」の本当の意味はこうなのです。禅ではけっしてモノの存在を否定していません。ここはきわめて重要なところです。このモノゴトの観かたは読者の皆さんにはピンと来ないかもしれません。筆者も最初はそうでした。しかしこういうモノゴトの観かたもあるのです。西田哲学もそうですし、カント以来のドイツ観念論哲学にも共通する、もう一つのモノゴトの観かたなのです。読者の皆さんも現時点では「そういう観かたもあるのかもしれない」と思ってください。

 これまでほとんどの禅師や仏教学者が「空理論」の解釈を誤って「モノという実体はない」と解釈してきたものですから、多くの人たちが「だってモノは現にあるじゃないか」と納得できず、苦しみから解放されなかったのです。これらの人達の誤った解釈のため、どれほど多くの人が禅を理解できずに離れて行ったかわかりません。筆者がよく「その禅師の頭をポカンとたたいてやりなさい。『痛いっ』と言ったら、あなたの体には実体がある証拠じゃないか、と言えばいい」というのはこのことです。

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 鈴木大拙博士は、禅を世界に広めた人として著名です。しかし、鈴木博士に対する強い批判があることも事実です。ある人は、
「鈴木大拙氏は誤った禅理論を世界に発進し、後進の多くの禅を学ぶ人たちを迷わせた ・・・それにしても不思議なのは、大拙氏が生存していたころは、名のある禅僧たちが数多くいたにもかかわらず、誰一人として大拙氏の誤った禅理論に反駁する者が居なかったということである・・・」と言っています。

いささか過激な発言ですが、筆者には共感できるところもあります。以前筆者は大拙博士の「色即是空の解釈は誤りだ」と言いました。

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