棺を覆いて事定まる

 私事で恐縮ですが、母のことです。

 急を聞いて車で1時間の実家へ駆けつけた時、一目見て衝撃を受けました。後光が差すような清らかな死に顔だったのです。目の前に横たわるのは、老いて病んだ母とはまったく別人のようでした。

 母は12歳の時両親を亡くし、妹二人とともに中野家へ引き取られました。祖父が企業家で、小さな町に映画館・劇場を作りました。戦前のことで、昭和二十年代までは活況を呈していました。他に一町歩以上の田畑もありましたから、両親は文字通り働きづめの一生でした。祖母は親類縁者のもめごとの仲裁を頼まれるような人でしたから、母のわが家での存在感は小さかったようです。大きな声を出すのを聞いたことはありませんし、自己主張するのを見たこともありません。私や姉や弟妹が叱られたこともありません(じつは一度だけありました。今でもよく覚えています)。叱るのはいつも祖母でした。私には、母はただ黙々と働いていた記憶があるだけです。趣味を楽しむこともなく、晩年になってようやく老人会の旅行やカラオケや踊りの会に参加していたのが、息子として唯一の救いです。

 母は両親も、兄と3人の妹をすべて若くして亡くし、その意味ではずいぶん淋しい人生だったと思います。75歳の死は、16年前としては早すぎたということはないかもしれませんが、90歳過ぎまで生きた友人も少なくないのですから。やはり、働き過ぎで重い病気になって亡くなったと言わざるを得ません。母は病院から「もうこれ以上の回復は期待できないので出て行ってほしい」と要宣告され、在宅医療に切り替えざるを得ませんでした。自分で食べることはできませんでしたので、妹がチューブを使って栄養補給することになりました。それがどれほど大変なことかは、経験した人でないとわからないでしょう。下手をすれば食べ物が肺に入り、重篤な肺炎になって死亡するのです。しかし、母は退院後わずか数日後に亡くなりました。人に迷惑をかけることがとても嫌いな人でしたから、さっさと逝ってしまった、母らしい身の処し方だったと思います。

 その母の最期の自己表現が、あの清らかな死でしょう。もちろん本人が望んでできるものではありません。「仏様のような人だ」と言われた母の人生の集大成が、期せずしてあのような清らかな死に顔となったったのでしょう。それを見て私は、「神はすべて見ていらっしゃる。公平だ」と思いました。「棺を覆いて事定まる」とはこのことだと思います。

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