色即是空・空即是色(2)

読者の方から次のようなご質問をいただきました。

凡愚です。ご無沙汰いたしております。つたなき質問をお許し下さい。
1 モノ(或いはモノゴト)の真相は、中野さんの御説からしますと、色の見方と空の観方が一如したものからみる必要はなく、空の観方によって得られるのではないでしょうか。2 仮に「色の見方と空の観方が一如したもの」からしかモノゴトの真相は見えない、としますと、それはどんな「みかた」で、そこからはどんな「真相」が見えるのでしょうか。愚考しますに、せいぜい色の見方と空の観方とを、瞬時にみかたを切り替えてみるとしか、言いようがないような気もしますが・・・・・?
3 青原禅師は、「落ち着いた今となってみると云々」とおっしゃられているようですが、そうすると空の観方というのは、人は四六時中そういう観方をして暮らしていけるものではなく、普段は(社会生活的には)色の見方が普通で、煩悩や不安が起きそうになったら、空の観方に切り替えて対処するということではないのでしょうか。
4 「あいかわらず山は山で、水は水にみえる」というのが、修行前にみたのと違うということですが、違わなくて(色の見方だから)よいのではないでしょうか。色の見方というのは、修行には関係しないように思われますが・・・・・・?

筆者のコメント:いつも適切なご質問をありがとうございます。他の皆さんにも参考になりますので、ブログ本編で取り上げさせていただきます。

筆者の考え:

1)おっしゃるように、空の観方が正しいものごとの観方だと思います。しかし、色の見方を無視すると、「物などない。ただ意識だけがある」という唯識論になってしまいます唯識論には原理的な欠陥があると、すでにお話しました。

2)常に(四六時中)空の観方でものごとを見るのが、悟りだと思います。人間の思い込みや(時代によって変動する)価値観、感情にとらわれたモノゴトの姿ではなく、神の目で見た姿です。青原禅師は「悟りの後で観た世界も修行前に見た世界と同じだ」と言っていますが、それは言葉の「綾」で、じつはまったく違うのです。変わるのは景色だけではありません。周りと私との関係が変わってしまうのです。それ以上は言えません。

3)「煩悩や不安が起きそうになったら、空の観方に切り替えて対処するということ」ではありません。逆です。「ふだんから空の観方でモノゴトを見ているが、色、すなわち物体としての存在も決して無視しているのではない」これが正しいものごとの観方だと思います。

4)「修行前にみたのと違わなくて(色の見方だから)よい」のではなく、空の観方で見えるようになったことが悟り(飛躍)だと思います。前記のように、同じように見えていても質的にはまったく違うのです。

追加:おっしゃるように色の見方には修行は必要ありません。一方、空の観方は、「なるほどそういうものか」とわかるのは第一段階に過ぎず、意識せずにその観方ができるようになるためには、さらなる修行が必要だと思います。それが悟後の修行と言われるもので、村上師や良寛さん・・・皆さん厳しい修行を続けていらっしゃいます。

 「悟りの状態とは、いわば、クリーム(Oil in Water)の状態からバター(Water in Oil)の状態にクルッと転換した心境だ」とお話しました。あなたは良いところまで来ていますが、まだクリームの状態だと思います。

6 thoughts on “色即是空・空即是色(2)”

  1. 凡愚です。早速のご回答ありがとうございました。じっくりと考えさせていただきたいと思います。
    一言だけ申し上げますと、
    中野さんの則(すなわちではなく、そくざに)に即しますと、→は即座に、色→空、空→色 ということで、二にして一、つまり、一如ということになるとのこと。一体化ではないと。
    すると、「一如のみかた」というのは、色の見方と空の観方を一体化することではなく、空の観方が正しいのであるが、色の見方をないがしろにするものでもない。つまり、モノゴトを色の見方をわきまえつつ、空の観方でみる、こらが禅の「悟りを得た禅者の)みかたである。これでよろしいでしょうか。
    一如ぼに拘るようですが、どうも、ハッキリしないと、ご飯の通りが良くないようですので・・・・・
    (笑い。失礼しました)。

    1. 「色の見方と空の観方を一体化することではなく、空の観方が正しいのであるが、色の見方をないがしろにするものでもない。つまり、モノゴトを色の見方をわきまえつつ、空の観方でみる、こらが禅の「悟りを得た禅者の)みかたである」

      筆者の感想:その通りです。私の考えを正しく理解していただいている方がいらっしゃることがわかって嬉しく思います。

  2.  凡愚です。追記をお許し下さい。先の御礼のコメントで、「一如」に拘る旨を申し上げました。
     中野さんは、以前、私へのご回答で、「悟りに至った禅僧はいつでも「無我」の状態になれるとお考え下さい。さらに、長泉寺矢口さんのおっしゃっている「禅は無我の実現がねらいなのです」は正しくありません。禅では「自我(自己)」も否定しません。「見たモノと観たモノを一如とする」ために必要だからです。すぐれた禅僧はそれらを自在に一如にすることが出来ます。」とおっしゃられています。すると、
    1 「「禅は無我の実現がねらいなのです」は正しくありません。」なら禅の狙いとは何でしょうか。

    2 「見たモノと観たモノを一如とする」「モノ」を一如とするのでしょうか。それとも「見るという見方と観るという観方、この二つの「みかた」を一如とするのでしょうか。

     以上、誠にお手数をおかけして申し訳ございませんが、何卒よろしくご教示下さいますよう。

    1. ご返事が遅れて申し訳ありません。筆者の考えは次の通りです。
      1)凡愚さんが「無我」をどのように理解していらっしゃるか教えてください。それによって筆者の感想は大きく変わります。現時点で言えるのは、禅の目的は「空」を体得して仏(神)の目でモノゴトを見えるようになることだと思います。体得という言葉が大切です。頭でわかることではありません。
      2)「見たモノと観たモノを一如とする」だと思います。
      以上ご参考になれば幸いです。

  3. 凡愚です。ご回答ありがとうございます。
     自我とは心理学の方では、自分が考える「自分」
    アイデンティティ「自我同一性)であり、自己とは
    自分と他人を通しての「自分」パーソナリティと、
    区別されるようです。
    「無我」ですが、我という実体はない、という風に使われているように思えます。これは、我(アートマン)が無いといっているのか、おおよそ実体というものはない(無常に照らすと)、だから、我は無いと言っているのか。この場合、実体というものではないが、仮に「自分」を措定して、わたしたち意識(意識は全て自己意識である)あるものは、「自分」があると考えたら良いのか。
     本日(2019.7.27)Eテレ「こころの時代」を観ていると、正眼寺住職の山川宗玄氏が、「(無我といっても)我が無いわけではない」とおっしゃられたように聞こえました。すると、我が引っ込んだ状態なのかな、とも思えます。我が引っ込んでも、考えてないわけのではないので、何かが考えている、その何かを、「自己」と言えるのかもしれません。
     無我は難しいです。中野さんのご教示を、よろしくお願い申し上げます。

    1. 凡愚様(もう少し自信のあるお名前にしてください。ご返事するのに困ります)

       重要なご質問ですから、ブログの方でお答えさせていただきます。ほかの皆さんの御参考にもなると思いますので。今、いろいろ書くことがありますので、しばらくお待ちください。

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