本則(筆者訳):ある時法座を知らせる寺の幡が風にパタパタ揺れ動いていた。それを見て二僧が議論を戦わせていた。 一人の僧は「幡が動いているのだ」と言うと、もう一人の僧は「いや風が動いているのだ」 と言ってお互いの立場を譲らないので決着が着かなかった。それを聞いた六祖(註1)は 「これは風が動いているのでもなく、また幡が動くのでもない、あなた方の心が動いているだけだ」と云った。 これを聞いた二僧はゾッとした。
無門の評唱(感想、筆者訳):風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない。それでは祖師が言いたい処は一体何処にあるのだろうか。
もし、そこをしっかりと見抜くならば、この二僧がはじめ鉄を買おうとしたのに、
思いがけず金を手に入れたことが分かるだろう。
それにしても六祖は優しすぎたためにとんだボロをだした一幕であった。
註1 大鑑慧能(たいかんえのう、638-713)唐代の優れた禅師。禅の中興の祖。
前回に続いて千葉県曹洞宗西光寺無玄邦光師の解釈(詳しくはブログをお読みください):
・・・では「風・幡・心が動く」と「風・幡・心は動かず」との違いは何でしょう。語意からすればまったく相反する表現です。この公案の意図はまさにここにあるのです。それはつまり「心が動く」と「心動かず」に”差”があったら「事実」は見抜けないということです。すなわち、「動く」が真に分かれば、同時に「動かず」が分かるのです。「動く」を観念として理解していたら絶対に分かりません。ちょっとでも差別観念が働いたらたちまち「真実」は”天地遙かに隔たって”しまうのです。ここで無玄師は風・幡・心は不二一体だと言っています:筆者)・・・風・幡・心が真に不二一体のものならば、一体という認識も、不二という概念も、「動く」「動かない」という観念も、更に言えば「悟り」という観念もそこにはありません。あるのはただ「あるがまま」の「まるだし」だけです。「ただまるだし」の世界には一切の分別はありませんから、無門禅師の言う「動くもの」など何もないのです。一切の対立観念もないから幡も風も心も無く「物我一如」なのです。すなわち「まるだし」が「事実」なのです・・・
筆者の感想:まず、「風が動くか幡が動くか」の二僧の議論は、たしかに六祖が言うよう、「モノゴトを対立してとらえてはいけない」という禅の考え方に反します。無門が「六祖は優しすぎたためにとんだボロをだした」と言っているのは、「教えてはいけない。ヒントだけ」という師家のルールを乗り越えてしまったためです。さらに、無門が「風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない」と六祖を批判したのは見当違いです。なぜなら、六祖は二人の僧の議論を訂正したのであって「風・幡・心が動くかどうか」とは別のテーマだからです。
それでは その「別のテーマ」についてお話します。まず、読者の皆さんは、無玄師の言う、
・・・風・幡・心が真に不二一体のものならば、一体という認識も、不二という概念も、「動く」「動かない」という観念も、更に言えば「悟り」という観念もそこにはありません。あるのはただ「あるがまま」の「まるだし」だけ・・・
がおわかりでしょうか。これでは、無玄師自身が嫌う「単なる説明」になってしまうと思います。筆者は、無門が言う「風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない」の真意は、「空」の概念なのだと思います。「空」のモノゴトの観かたによれば、「風や幡という対象も、私の心も別々のものではなく、見る(聞く・・・)の、それぞれ、対象部分と主観部分にすぎない」という意味だと思います。いかがでしょうか。