歎異抄の呪縛 

歎異抄の呪縛から早く脱するべきです(1)

 前にもお話しましたように、このシリーズでは決して禅だけに限るのではなく、他の仏教宗派から、キリスト教、スピリチュアリズムと、幅広く精神世界について考えていきたいと思っています。そうすることが禅を深く知るために不可欠だと思えるからです。そこで今回は、浄土系宗派について私見を述べさせていただきます。

 わが国の浄土系宗派は、栄西や道元が禅をわが国へ紹介する以前、すでに平安時代に盛んになりました。親鸞の言う「七高僧」の六番目、恵心僧都源信が有名です。次が法然、親鸞の師ですね。この二人が現代に至る浄土系思想の源流となった人たちです。親鸞の著書では「教行信証」がよく知られています。「歎異抄」は親鸞自身の著作ではなく、弟子の唯円(異説あり)が、親鸞の死後混乱した教えを正すために書かれた本です。

 「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の死後、その教えを不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生であったにもかかわらず、法然の教えを忠実に守ったことにあります。
 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話しした多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。

歎異抄の呪縛から早く脱するべきです(2) 

 誤解しないでください。筆者は浄土系思想はすばらしい教えだと思っているのです。
禅も優れた思想なのですが、難解で、その教えを自分の血肉とし、いざという時の心の支えとするのは容易ではないのです。一方、法然の思想は、一見、簡単なのですが、それを心から信じることのできる人はごくわずかだと、筆者は思っています。つまり、浄土系思想も決して安易ではないのです。要するに、人間は自分に合ったものを選べばよいのでしょう。

 「弥陀の本願」について
 浄土教の根本経典である「仏説無量寿経」に説かれる、法蔵菩薩が仏に成るための修行に先立って立てた四十八の願のことで、その第十八願がとくに重要です。すなわち、
設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
 ・・・もし私が仏となるには、すべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国(極楽)に往生しようと願って、少なくとも十回、私の名(南無阿弥陀仏)を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるなら、私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする・・・
というものです。すなわち、ここに「南無阿弥陀仏と唱えなさい」の典拠があるのです。

 筆者は以前、金沢の人と話し、たまたまこの「弥陀の本願」に及んだことがあります。その人は「この話を事実だと信じている」と言うので、大変驚きました。高等教育を受け、社会の第一線で活躍中の人でしたから。
 前述のように、筆者は浄土系思想をすばらしいと思っていますが、もちろん「弥陀の誓願」など、単なる「お話(フィクション)」だと考えています。法然もそうだったに違いありません。それは、唯除五逆誹謗正法の取り扱い方から明らかです。じつはこの一文は、古来、浄土系宗派の大問題だったのです。すなわち、五逆とは、父殺し、母殺し、仏陀を傷付ける、徳の高い僧侶を殺す、僧の和合を乱す。謗法とは、仏の教えを誹謗することです。「これらの大罪を犯した者だけは救済の対象から除く(唯除)」と言うのです。それがどれほどおかしいかは明らかですね。殺していけないのは父母ばかりではありませんから。
 浄土系思想の先達たちは、さまざまな「へ理屈(と筆者には思えます)」を付けて、この矛盾を「説明」しています。しかし、法然だけは、サラリと受け流しているのです。それは法然の著作を読めばわかります。にもかかわらず、このエピソードを事実だと信じている人がいたので、驚いたのです(金沢は加賀一向一揆があったことなど、親鸞にゆかりの深いところですから、ご当地のその人は疑ってもみなかったのでしょう)。
 
 しかし、たとえ自分が信じる宗教でも、盲信がいけないことは明らかですね。それでは自分の尊厳をないがしろにすることになります。自分の尊厳をないがしろにした宗教など、あってはならないのです。筆者は、ちゃんと唯除五逆誹謗正法についての法然の考えを確かめており、なおかつ浄土系思想のすばらしさを確信しているのです(その理由については、別の機会にお話しさせていただきます)。

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