それでもブログを書き続けます(2)

 私がこのブログシリーズを書き始めるにあたって、実名や経歴などすべてをオープンにし、なおかつ読者からの投稿欄も設けました。じつはそれにはある覚悟がありました。「読者から実りのない放言や、無責任な中傷があるかもしれない」というものです。御承知かと思いますが、ほとんどのブロガーは一切そういうものを公開していません。無責任な批判や中傷を恐れたからでしょう。私は永く生命科学者として生きてきましたから、他人の意見は真正面から受け止めるのを当然と考えてきました。

 ところがこれまでなんども、実りのない放言を受けてきました。たとえば、「(どこが問題かを指摘することなく)あなたの考えは全然だめです」とか、私が澤木興道さんを批判したところ、「酸っぱいブドウの理論です(つまりヤッカミの理屈だというわけです)」。最近では「(聖書はすばらしいと最初に持ち上げて、後で誤りがあると)建前と本音を使い分けている」。もちろんいずれも匿名です。岩村宗康さんからは最後に「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの放言を受けましたが、まだいい方でした。きちんと議論はできましたから。

 もちろんこれまで頂いた読者のご意見の99%は真摯な内容で、稔りあるものでした。しかし、前記のような、議論の仕様もない放言は、研究者時代には全くなかったものですから、私には応えました。そんなこともあって昨年12月をもってブログを閉じることにしたのです。本の著作を通じて考えを述べれば、このようなやりきれない思いもすることもありません(事実、すでに数冊、本を書き終わりました)。しかし、熱心にこのブログシリーズを読んでいただいている読者の方から「信念に基づいて意見を述べれば必ず賛同者がいます」。「反発する人の同じ数以上の支持者がいます」などのエールを送っていただき、結局、続けることにしたのです。

 このごろ気が付いたことがあります。「反発する人は、自分がこれまで信じたことを全否定されたように感じているのではないか」。じつはそれこそ私が意図していたところなのです。もちろん全否定することなど論外です。現に、上記の4人の人にも「前向きな議論を続けましょう」と言ってるのです。しかし、長年、禅を始めとする仏教の研究者や僧侶の書いたものを読んでいますと、「これでは日本仏教は滅びる。一度全部をスクラップアンドビルドしなければ」と考えているのです。「私の考えにより、上記の人たちに激震が起こったのではないか。それが感情的な反発になって跳ね返ってくるのではないか?」。それならそれは私が最初に意図したことなのです。

 以上、私の「手前味噌」でしょうか。お断りしておきますが、私は本来、「去る者は追わず」を旨としてきました。