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禅はなぜわかりにくいのか

   中野禅塾だより (2015/8/15)

禅はなぜわかりにくいのか(1)

 禅はなぜむつかしいのか・・・。仏教はなぜ分かりにくいのか、と言い換えてもいいと思います。筆者は、その理由の一つとして、仏教があまりにも拡大されてしまったこと、その歴史的展開をごっちゃにしていることが原因だと考えています。たとえば、中野禅塾だよりNo.2(2/1)でお話した、「空」についての、現代の有名な禅師や仏教解説者であるM師やHさんの解釈:
  ・・・あらゆるものは空であるから実体はない。それはあらゆるものは常に変化し、一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない・・・(M師)
  ・・・空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである・・・(Hさん)

を見ればわかります。両者とも、仏教の根本理念とされる「無常」「縁起」「無我」「苦」を使って解釈していますね。じつはそれらすら、釈迦が説いた法かどうかは分からないのです。釈迦が悟りを開いて最初に説いた法を「初転法輪」と言いますが、仏教に関する本のどれにも、

 ・・・このとき説かれた教えは、中道と、その実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる・・・
とあります(八正道とか四諦、三転十二行相の意味は、それぞれ調べてください)。このように仏教には数字がさまざま出て来て、分かりにくさの原因となっています。じつは数字をやたらに使いたがるのはインドの人々の性癖なのです。そんなものに振り回されてはいけません。初転法輪がどのようなものであったのかも、今ではよく分からないのです。
 釈迦没後長い間、その教えはもっぱら口伝で伝えられました。100-200年くらい経って、いわゆる部派仏教徒達によって文書としてまとめられました。いわゆる阿含(あごん)経典類です。さらに100-200年経った紀元前後から、それらが整理され、拡大されて成立したのが「般若経(初期)」「維摩経」「法華経」「浄土三部経」などの大乗経典類です。紀元2世紀頃のインドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が「空」の理論を打ち立て、仏教のその後の方向性を決めたのは有名な話です。
 仏教の経典類はこのような歴史的変遷を経ているのです。キリスト教がイエスの死後わずか30年で確立されたことと大きな違いですね。にもかかわらず、現代の仏教各宗派が、自らの根本経典を「これこそ釈迦が悟りの後最初に説かれた教えである」とか、「最後に説かれたもっとも重要な法である」などと言っています。本当に困ったことです。
 膨大な仏教経典類を読破し、「それらはだんだん積み上げられたものである」と、世界で初めて洞察して整理したのが、江戸中期の大阪の私学校の学者富永仲基で、わずか31歳で夭折した大天才です。今では「大乗経典類は釈迦の教えとは無関係である」ことは定説になっています(大乗非仏説)。
 このように、複雑な仏教経典類も、もつれた糸をほぐすように読み解いていけば、だんだん分かってくるのです。

禅はなぜわかりにくいのか(2)

 前回、仏教はなぜわかりにくいのかの理由について書きました。それは釈迦の死後、つぎつぎに教えが拡大解釈されていったためです。たとえば「大般若経」を取り上げても、紀元前後に成立した第一バージョンから、あの玄奘三蔵(7世紀の人)のバージョンまで3つもあるのです。「釈迦の本当の教えは何だったのか」は、真摯な仏教徒なら誰でも知りたいところでしょう。その意味で、大乗仏教の経典類には、筆者は批判的です。ただ、否定はしません。インドには哲学的な国民性があり、釈迦は傑出した人でしたが、決して奇跡の人ではないからです。その以前も、以後にも優れた哲学者がたくさんおり、大乗経典は、深い思索の結果生まれた、新しい仏教の教えと言ってもいいからです。

 それでも釈迦の教えそのものを知りたいのが多くの人々の願いでしょう。前回お話した、部派仏教の各部派では、釈迦の教えにもっとも近いとされる、スッタニパータや、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなどをそれぞれ根本経典としています。スッタニパータは「ブッダのことば」、ダンマパダ、ウダーナヴァルガは「真理の言葉 感興のことば」として中村元博士によって翻訳され、岩波書店から出されています。中村博士(1912-99)は、筆者が最も尊敬する仏教学者で、パーリ語、サンスクリット語など、インドの古語や文化に精通し、その卓越した知識と語学力により、上記の経典や、大乗仏典を翻訳、解説されました。中村博士の翻訳によるスッタニパータやダンマパダ、ウダーナヴァルガは、大乗経典類とは異なり、短い話言葉で書かれており、釈迦の教えがその後ずっと口伝で伝えられたことが彷彿とされます。それでも筆者は、それらは釈迦の教えの一部にすぎないか、脚色されたものとみなしています。

 前回お話ししたように、現在、釈迦の教えのエッセンスは、「苦」「縁起」「無常」「無我」だとされており、近現代のわが国の仏教解説者達は、それらをキーワードとして仏教経典類を解釈しています。しかし、それが大きな誤りの原因であることはすでにお話しました。釈迦の悟りの内容について、筆者は「すべての苦しみには原因がある。それにこだわることが苦しみとなっている」だと思います。「因果の法」ですね。しかしその後、とくに大乗仏教徒によって「縁起」になり、「因縁起」と拡大解釈されていったのだと思います。この「拡大(増広と言います)」こそ、曲者なのです。「空」の解釈でお話したM師やHさんは、有名な人達ですが、いずれもその轍を踏んでいるのです。
 このことを念頭に置いて、さまざまな解説書を読むと、現代の仏教解説者の誤りがだんだん見えてきます。

宗教と科学

宗教と科学(1)

 後輩Iさんは、誠実そのもので、知性あふれる人です。蔵書7000冊(今は大分整理)からも、その奥行きがお分かりいただけるでしょう。筆者は数か月に一度、彼と会って、お茶を飲みながらその教養の一端を知るのを楽しみにしています。Iさんはここ半年、その延長として、聖書について学んでいるとのことです。彼の古い友人が、キリスト教の一宗派の熱心な信者だとか。そこで筆者もこのところ、彼を通じてキリスト教の話を聞いています。この宗派は、やや特異なものとして知られていますが、第二次大戦時、「信仰に反するから」と、徴兵拒否したドイツやソ連の信者の話は胸を打ちました。恐らく強制収容所や、シベリア送りになって、その多くは死んだでしょう。
 ただ、Iさんとは話が平行線になることも少なくありません。彼はギリギリのその時、「宗教と科学は別だと考えていますから」と言いました。そこで、今回、この重要な問題について、筆者の考えを述べます。

 筆者は、宗教と科学は完全に一つ、と考えています。これは、長年、生命科学者として生きて来た実感です。その経験から、生命は神が造られたとしか思えないのです。筆者にとって神への信仰と科学研究は完全に一致するものなのです。

 現代の唯物論的生命観からは、「生命は偶然の重なりによって出来た」と言われています。しかし、筆者はその考えには与しません。138億年かけて人間は、ビッグバンから始まる宇宙の発展原理や構造まで解明できるようになりました。これはすごいことです。この宇宙の誕生から進化も含めて、偶然の積み重ねと言うには余りにも飛躍があると思うのです。人間はもちろん、あらゆる生命も、山も川も草も木も、そして宇宙全体も、神が造られたものに違いありません。
 
 生命は神によって造られたという、筆者の信仰の基盤は、筆者自身がつかんだものです。誰から教えられたものでもありません。そのことをほんとうに嬉しく思うのです。

宗教と科学(2)禅は宗教か

 禅が宗教であるかどうかは色々な考えがあると思います。「当然じゃないか」と言う人も、「哲学である」と言う人も。筆者は、そのどちらとも少し違う考えを持っています。もちろん禅宗は宗教の一宗派です。あの曹洞宗永平寺にも本尊があり、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来です。釈迦如来は説明の必要はありませんね。阿弥陀如来は、無量寿仏、すなわち、「無限の寿命をもつもの」の意味で、西方にある極楽浄土を治める仏(東方は薬師如来)ですから、全宇宙を主宰する毘盧遮那仏(大仏)の一つ下の階級の仏のようです。 弥勒仏は、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏とされていますが、大乗仏教では菩薩のお一人(如来の下)と言われています。つまり、道元が選択した永平寺の本尊は、ちょっと首尾一貫していないようです。つまり、宗教であるような、ないような捉え方です。
 じつは道元の著書をよく読めば、完全に哲学であることがわかります。禅の思想は、カント、ヘーゲル、フィヒテと続くドイツ観念論哲学と共通するところが多いのです。あの西田幾太郎の「善の研究」もその流れを汲むものです。西田は、禅に造詣の深い鈴木大拙と無二の親友で、思想的にもお互いに影響し合っています。それで筆者は、「善の研究」は「禅の研究」だとみなしています。

 「悟り」。禅を学ぶ人ならだれもが憧れる境地でしょう。しかし、それがどういうものか、イメージが湧きにくいですね。「ハラリと悟った」「身を見出した」「絶対平安の境地」・・・。筆者はそれを「神と一体になった状態」と理解しています。その意味では、禅は宗教と考えます。むしろ、仏教を一足飛びに飛び越えたものだと思います。その一方で、まぎれもなく「哲学だ」と思っています。哲学は人文科学ですから、筆者にとって、ここでも宗教と科学が融合しています。

色即是空・空即是色

         中野禅塾だより (2015/6/1)

「色即是空 空即是色」(1)

 前回、「空とはモノゴトを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの五感で感じる)一瞬の体験だ」と
お話しました。つまり、従来の、「私があってモノを見る」という唯物的見かたとはまったく異なる、物(モノ)と事(コト、現象)の観かたです。これまでのほとんどの僧侶や宗教学者は、この文言を「モノという実体はない」と解釈してきました。これは大きな誤りです。

 じつは、色即是空だけでは不十分なのです。空即是色と続けて初めて一つの思想になるのです。ここがきわめて大切です。その正しい意味は「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです。道元も主著「正法眼蔵」の現成公案編で、

  ・・・色すなわち私達の五感で感知できる自然や物質はそのまま存在する。それは事実の一面である。もう一つの面が「体験」であり、空でなのだ。空は空でそのまま存在する。色と空は「不一不異」であり、「一如」である・・・

とはっきり言っています(以上、筆者訳)。
 ある近代の有名な禅師は、
 ・・・「色即是空」について、色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる……(中略)……空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、という主張(下線筆者)・・・

と述べています。こんな解釈(とくに下線部分)をしていては、一生かかっても禅は理解できないでしょう。そもそも絶対の無とはどいう意味でしょう。おそらくこの人は空の意味がわからず、「無のようでもあるが、無と言ってはおかしいし・・・」との苦しまぎれの説明をしたのでしょう。
 道元が言っている「不一不異」とか、「一如」は禅ではとても大切な概念です。同一なんかではありません。「同じではなく、別でもない」とは、一見、おかしな表現ですが、この概念をよく表わしています。心理学のテストで使われる「ルビンの盃」の絵があります。その絵の黒い部分を見ると盃に見えますが、バックの白い部分を見ると二人の人が向き合っているように見えます。このように、同じものでも視点を変えると別のものに見える。でもやっぱり同じものなのです。「不一不異」とは、たとえばこういうことを言うのです。色即是空で「空が実在である」ことを示し、一方で、空即是色、つまり「色も実在である」と言っているのです。是も、前述の禅師の言う、
 ・・・(即)是は、主語と客語をつなぐisに当たる・・・

は誤りで、色と空が「一如」だということを示すキーワードなのです。さらに重要なことは、同じ禅師の、
 ・・・空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして・・・

の解釈は大きな間違いであることがお分かりいただけるでしょう。前述のように、「色は空である」だけでは不十分で、「空は色である」とも言わなければ、この大切なフレーズは成り立たないのです。

 さらに、「色即是空」の即をすなわちと訳している人がいますが、まったくの誤りです。「即座」の即なのです。即座には深い意味があるのです。色と言いながら、即座にそれを否定して空と言っているのです。このように一瞬たりとも概念を固定しないのが、禅の重要な思想なのです。

色即是空・空即是色(2)

 前回、
 ・・・色即是空 空即是色 の正しい意味は、「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです・・・

とお話ししました。

 今までほとんどの禅師も仏教学者も、この言葉を「モノという実体はない(だからこだわるな)」と説いてきました。そんな解釈で納得できるはずがありません。なぜなら、「あなたの体の実体はありません」と言われても、「ゴツン」とたたかれれば痛いからです。モノが実在することのなによりの証拠ですね。

 そもそも、空を「実体が無い」と解釈すること自体が間違いなのです。実体があるとかないとかの問題ではなく、モノゴトを観るという体験という観かたもある、というのが正しい意味なのです。さらに、「禅の基本は空の思想だ」というのも誤りです。よく知られているように、空の思想は紀元2-3世紀頃、インドのナーガルジュナ(龍樹)が確立しました。釈迦以来の仏教の大成者と言われている人です。しかし、禅の基本思想は空ではありません。色即是空 空即是色なのです。両者を一まとめにして一つの思想なのです。空の思想と禅は、基本的には別の思想なのです。空(体験)も色(モノ)も両方とも実体として認める。それが禅の思想なのです。いずれのモノゴトの見かたも正しい、しかしどちらにもこだわってはいけない、と言うのです。ある近代の禅師は、「空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界以外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・」と言っています。こんな解釈をしていては、何十年経っても禅はわかりません。

 禅の初祖と言われる、あの達磨大師(ボーデイダルマ)がインドから中国へ来たのは、紀元5世紀の末のことです。つまり、ナーガールジュナの300年も後の人です。300年も後に同じ思想を持ち出してくるはずがないじゃないですか。ちなみに、有名な鳩摩羅什(クマラージヴァ、インド出身ですが西域の人)が般若心経を漢訳したのが5世紀初めです。しかし、中国ではなななかその教えは浸透せず、達磨大師の出現を待たねばならなかったのでしょう。あの玄奘三蔵訳(異論もあります)が出たのは7世紀半ばで、禅の隆盛は9世紀以降、唐の時代です。

近・現代の禅師や仏教学者が犯してきた上記の誤解釈が、これまでどれほど、まじめに禅を学ぼうとする人々を混乱させてきたか分かりません。道元の「正法眼蔵」や「永平元(道元)禅師語録」、公案集である「無門関」「碧巌録(従容録と重なる部分も多い)」「臨済録」などの原典をよく読めばすぐ分かることなのです。禅を正しく理解するには、仏教の歴史を学ぶことも大切です。それはまた後ほどお話しします。

色即是空(3)

 今回は、「般若心経」の中心テーマである「色即是空」について、近・現代の禅師や、仏教研究家の解釈を示します。いずれも有名な人達ですから、ネットでお調べください。

鈴木大拙博士(1870-1966)
 鈴木博士は、禅を初めて欧米に紹介した人です。筆者の知る限り、日本語で書かれた「般若心経」の鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、

 ・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・

筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。

山田無文師(1900-1988)
 
 ・・・肉体は虚無を離れない。虚無は肉体を離れない。肉体はそのまま虚無であり、
虚無はそのまま肉体である。感覚や想念や意欲や或いは自我というような精神作用もまた
その通りである・・・

筆者はこの文を読むと頭を抱えてしまいます。

中村元博士(1912-1999)

 ・・・物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない・・・

中村博士は東大名誉教授。筆者がもっとも尊敬する仏教学者ですが・・・。

西嶋和夫師(1919-2014)

  ・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・

 なぜこれらの著名な方々と、筆者の解釈とはあまりにも違うのでしょうか。禅は、「わかったか、わからないかの世界」だと言います。前にお話したように、「色即是空」とは、「モノゴトの見かたには二通りある」と言っているのです。「空」は、この人たちの言うような特定の概念ではないと思います。そこがわからないと禅はわかりません。

(紹介した各禅師、仏教研究家の引用文献はすべて把握していますが、字数の都合上省略させていただきました)

      色即是空(4)

西嶋和夫師(1919-2014)の解釈をもう一度例に挙げて、筆者の解釈との違いを説明させていただきます。他人の考えを批判するのは心苦しいのですが、両者を比較する方が、違いが鮮明になり、分かりやすいと考えてのことです。
 西嶋師は、東京大学法学部卒、大蔵省、日本証券金融勤務を経て、1973年に永平寺東京別院の丹羽廉芳師(元永平寺管主)の下で出家。その後、嗣法(後継者になること)。あの澤木興道師の弟子筋に当たります(法名「愚道」は、師の名前にちなんだものでしょう)。西嶋師は、道元の「正法眼蔵」や、龍樹の「中論」の日本語訳出。わが国内外で講演活動を行うなど、近代の代表的な禅師でした。その西嶋師の「色即是空」の解釈が、

  ・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・

です。この解釈では、肝心なところが欠けています。まず、「色即、空即・・」の「即」は重要な意味を持っているのです。説明しなければなりません。ちなみに「即」は「すなわち」ではありません。即座の「即」です。さらに、「是」は主語と客語が同一であることを示す述語とありますが、「同一」ではありません。「一如」、あるいは「不一不異」です。これらの言葉には禅独特の深い意味があり、それがわからなければ「禅がわかった」とは言えないのです。
 つづく「空即是色」も、西嶋師が言うような「(色即是空の)主語と述語を反対にして」というような、単なる文章上のスタイルではありません。とても大切な理由があるのです。さらに、前回も指摘したように「空は有でもなく無でもない絶対の無」とはどういうことでしょう。「有でも無でもなければ」別の言葉を考えねばなりませんので、やむを得ず「絶対無」としたのでしょう。もちろん「有無を超越した」でも説明になっていません。「色即是空」が唯心論的立場で、「空即是色」が唯物論的立場とは!それも説明が必要でしょう。つまり、西嶋師の「色即是空・空即是色」の解釈は誤りだとしか言えないのです。

 筆者の解釈は、次回以降にお話していきますが、要するに、「色即是空・空即是色」とは、モノゴトのみかたの問題なのです。「モノの有る無し」でも、「モノには実体が有るか無いか」の問題でもないのです。
 真の意味は、モノゴトのみかたには、「見かた」と「観かた」の二つがあり、「見たモノと観たモノを一如とする」ことが、モノゴトの真実の姿を知るために必要だと言うのです。これこそ東洋的モノゴトのみかたの真骨頂なのです(「見かた」と「観かた」は筆者が便宜上作った言葉です。後で説明します)。

空(くう)とは

「空」とは(1)       

 禅は宗教ではありません。モノゴトの「見かた」、つまり哲学です。私たちはふだん、「モノがあって私が見る」と考え、疑問にも思いませんね。しかしその見かたは正しいのでしょうか。たとえば、テレビ画面に映っている画像を、そのままモノやヒトだと思っています。しかし、よく考えれば、それは単なる画像であってモノやヒトではありませんね。それと同じです。私たちが見ているのはモノやヒト自体ではなく、それを映した脳内のイメージに過ぎません。「アッそうか」とお分かりいただけたら成功です。その考え方を延長したのが、唯識思想です。それについてはいずれお話しします。
 
「色即是空」、有名な言葉ですね。ちなみに正式には「色即是空 空即是色」です。これは「モノゴトのみかたには見かたと観かたの二つがある」と言っているのです。これこそ禅の要諦なのですが、前回までにお話ししたように、正しく理解していない禅師が多いのです。

  No.1で紹介したM師の解釈、

 「あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない」

は、多くの師の平均的解釈です(ためしにネットで調べてください)。なぜこのような誤りが繰り返されて来たのか。それは、これらの人達が釈迦の思想を誤解してきたからに違いありません。すなわち、

 ふつう釈迦の根本思想は、無常、縁起、無我だと言われています(異説もあります)。このうち、M師らは、無常を「あらゆるものは変化し・・・」、縁起を「すべてのものは関わりあっている・・・」と解釈したのです。しかし、じつはそれが誤りなのです(このことについては後ほどお話します)。この誤った解釈が、これまでどれほど禅をわかりにくいものにしてきたか・・・。困ったことです。

正しい解釈は、

 私たちはふだん「モノがあって私が見る」という見方をしています。それを禅では色(しき)の見かたと言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です)。「空」の観かたによれば、「私がモノを見るという体験こそが真の実在だ」と言うのです。

 このことは日本の曹洞宗の開祖道元が「正法眼蔵」ではっきりと言っています。「正法眼蔵」のハイライトは「現成公案編」です。ここに「空」の思想が書かれています。すなわち、「モノはすべてあるべきようにある(公案)。そして(人が)見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて)現われる(現成する)」と言うのです。「空の観かた」ですね。

 いかがでしょうか。M師らの解釈と明らかに異なることがお分かりいただけるでしょう。

 「色即是空」とは、「この2つのみかたでみた時、初めて、正しくモノゴトがみえる」と言うのです。「2つの異なるみかたで同時にみる」のを禅では「一如(いちにょ)としてみる」といいます。これが難しいのですが、禅の修行とはそういうものなのです。それについては次回お話しします。

空とは(2)

「モノがあって私が見る」という、常識的な見かたとは違って、「モノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という体験こそが真の実在である」と言われて、「突拍子もない考え」とは言わないでください。じつは、「モノがあって私が見る」という見かた、唯物論的な見かたが重視されるようになったのは、人間の文化史から言えば、まだ最近のことなのです。それは18世紀から19世紀にかけて起こったイギリスやドイツでの産業革命がきっかけで始まった新しいモノゴトの見かたなのです。鉄を作り、それによって紡織機や輸送機械を作り、快適に、便利に暮らすことが大きな目標になったからです。この人間の意識の変化により、「モノ」を重要視するようになったのです。このモノゴトの見かたが、社会の体制にも広がり、マルクスやレーニンのような社会主義思想が生まれました。新しい、人間尊重の考え方です。

 「空(くう)」の観かたは、東洋独創の思想ではありません。西洋でも、産業革命以前から、ドイツを中心に観念論哲学というモノゴトの見かたがありました(今でもあります)。

 「色即是空」の「即」を「すなわち」と解釈している人たちがいます。しかしそれはまったくの誤りです。「即座」の「即」、「色が即(そく)空だ」という意味です。「色」、つまりモノと「空」、つまり体験とを同一視するのが大切です。同一視とは、「一体」として見るのではありません「一如(いちにょ)」として見る。「一如」は禅独特の言い回しです。これを腹の底から理解するには訓練が必要です。「空」のモノゴトの観かた、と言われてもピンと来ないかもしれません。私たちは慣れていないからです。慣れること、それを禅の修行と言うのです。それが悟りにつながります。

 「空」の話に戻ります。「空」の観かたの特徴は、「その体験は一瞬だ」ということです。限りなくゼロに近い一瞬です。禅で「前後裁断」と言います。それが非常に重要です。なぜなら、そこには、「きれいだ」とか「きたない」、「偉い」とか「偉くない」というような「価値判断」がまったく入らないからです。きれいな花を見て「アッ」と感じる、そのままです。「きれいだ」はその後から出てくる「判断」です。「判断」とはその人や社会の価値観や、過去の苦しかった思い出や、未来への不安などが結びつかない、体験そのものなのです。生きるとは、一瞬の体験の連続なのです。このモノゴトの観かたによれば、苦しみも悲しみも、不安も入る余地がありません。禅の究極の目的が「苦しみからの解放」あるいは「心の平安」にあるとはこういうことなのです。

 私たちは常に「判断」しています。それは人間が知恵を持った時から身に付いた習慣で、生きて行く上で必要だからです。しかし、それは反面、苦しみや不安に結び付くのです。起きている時は常に判断していますから、私たちの脳は疲れているのです。だから、つまらないことで悩み、些細なことで腹を立ててしまい、しなくてもいい心配をしてしまうのです。それが正しい判断を狂わせてしまうのです。現代人はときどき頭を休めてやる必要があるのです。そして「ただしくモノゴトをみる」ように戻らなければなりません。「色」のモノゴトの見かただけでなく、「空」のモノゴトの観かたを合わせて、正しくモノゴトをみる……これがお釈迦様の言う「正見」です。

「空」とは(3)筆者の理解

 私たちはふだん「モノがあって私が見る」という見かたをしています(認識には、聞く、味わう、嗅ぐ、さわるもあるのですが、ここではすべて「見る」で代表します)。それを禅では色(しき)の見かたと言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください)。「空」の観かたによれば、私がモノを見るという体験も実在の一側面です。

 このことは日本の曹洞宗の開祖道元も「正法眼蔵」ではっきりと言っています。「正法眼蔵」のハイライトは「現成公案編」です。すなわち、「モノはすべてあるべきようにある(公案)。そして(人が)見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて)現われる(現成する)」と言うのです。「空の観かた」ですね。

「だってモノはあるじゃないか」「私がモノを見るという体験も真の実在の一側面だって?」とおっしゃる前に、まあ聞いて下さい。「空」は「ものの有る無し」を言っているのではないのです。モノゴトのみかたの問題なのです。筆者のこのブログの別のシリーズ(そもそも「五蘊皆空」の解釈を間違えているのです)で、

 ・・・・・・「般若心経」にある「五蘊」は、当初はちゃんと「人間の認識だ」と理解されていたのですが、わが国で、しかも近代になって「人間の認識」が「存在としてのモノ」にまで拡大解釈されてしまった。それが大きな誤りの元だ・・・・・・

と書きました。以下、その前提のもとにお話します。

 「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」とよく言いますね。目の前にあっても、認識しなければ「ない」のです。たとえば、ニューギニアにはセピック川という川があることをご存知の方もあるかと思います。しかし、じっさいにその川を見て「ある」と思っているのでしょうか、それとも単なる知識としてでしょうか。他人が『ある』と言っているから「ある」と思ってはいけませんね。

 もう一つ大切なことがあります。じつは、いま「私」が見ているものは、「私」の眼のレンズを通して網膜で感じ、脳で画像処理したイメージです。それは単に自分の経験の下に判断した、独自のものであり、他人のイメージとは違います。個人差のある、相対的な「モノの姿」です。つまり、「私が見ているモノ」は、真のモノの姿ではないかもしれません。

 さらに大切なことがあります。「見ている人は誰か」とうことです。〇川〇夫という「私」なのでしょうか、それとも本当の我でしょうか(私の造語で、申しわけありませんが、説明しやすい言葉なのでご寛容下さい。後ほど説明します)。じつは、モノを見ているのは「私」で、観ているのは本当の我なのです。本当の我は神(宇宙意識)につながっています。ですから本当の我が観ているモノこそ、神の眼で観ているモノの真の姿だと、筆者は考えているのです。この問題は、禅を考える上でとても重要です。

 禅の目的は、修行によって本当の我の眼でモノの真実の姿を見るようになることにあります。仏教で言う「正見」とはこのことです。

「空」とは(4)「空理論」の意味(その1)

 早いもので、このHPを開いてからもう1年経ちました。読んでくださる人、とくにリピーターの方が増えて喜んでいます。

 タイトル後半を見て「エッ」と思う前に、以前、「龍樹の空理論と禅の空理論とは違う」とお話したことを思い出してください。そうです龍樹の空理論は「原理というものはそれ自身独立して存在するものではなく、必ず他の理論に依存する」というものでした。それに対し禅の空理論は「モノゴトの観る(聞く、味わう、嗅ぐ、さわる)体験」でしたね。では「モノゴトの体験」にはどういう意味があるのでしょうか。それが今回のテーマです。
 まず、「モノゴトの体験」とは「観る人と、観られるモノの区別もない体験そのもの」、西田幾太郎の言う純粋経験です。有るとか無いとかの問題ではなく、モノゴトの観かたのことなのです。これまでの仏教家や仏教研究者が「モノはない」と誤解している「空」の本当の意味はこうなのです。禅ではけっしてモノの存在を否定していません。ここはきわめて重要なところです。このモノゴトの観かたは読者の皆さんにはピンと来ないかもしれません。筆者も最初はそうでした。しかしこういうモノゴトの観かたもあるのです。西田哲学もそうですし、カント以来のドイツ観念論哲学にも共通する、もう一つのモノゴトの観かたなのです。読者の皆さんも現時点では「そういう観かたもあるのかもしれない」と思ってください。

 これまでほとんどの禅師や仏教学者が「空理論」の解釈を誤って「モノという実体はない」と解釈してきたものですから、多くの人たちが「だってモノは現にあるじゃないか」と納得できず、苦しみから解放されなかったのです。これらの人達の誤った解釈のため、どれほど多くの人が禅を理解できずに離れて行ったかわかりません。筆者がよく「その禅師の頭をポカンとたたいてやりなさい。『痛いっ』と言ったら、あなたの体には実体がある証拠じゃないか、と言えばいい」というのはこのことです。

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 鈴木大拙博士は、禅を世界に広めた人として著名です。しかし、鈴木博士に対する強い批判があることも事実です。ある人は、
「鈴木大拙氏は誤った禅理論を世界に発進し、後進の多くの禅を学ぶ人たちを迷わせた ・・・それにしても不思議なのは、大拙氏が生存していたころは、名のある禅僧たちが数多くいたにもかかわらず、誰一人として大拙氏の誤った禅理論に反駁する者が居なかったということである・・・」と言っています。

いささか過激な発言ですが、筆者には共感できるところもあります。以前筆者は大拙博士の「色即是空の解釈は誤りだ」と言いました。