宗教と科学

宗教と科学(1)

 後輩Iさんは、誠実そのもので、知性あふれる人です。蔵書7000冊(今は大分整理)からも、その奥行きがお分かりいただけるでしょう。筆者は数か月に一度、彼と会って、お茶を飲みながらその教養の一端を知るのを楽しみにしています。Iさんはここ半年、その延長として、聖書について学んでいるとのことです。彼の古い友人が、キリスト教の一宗派の熱心な信者だとか。そこで筆者もこのところ、彼を通じてキリスト教の話を聞いています。この宗派は、やや特異なものとして知られていますが、第二次大戦時、「信仰に反するから」と、徴兵拒否したドイツやソ連の信者の話は胸を打ちました。恐らく強制収容所や、シベリア送りになって、その多くは死んだでしょう。
 ただ、Iさんとは話が平行線になることも少なくありません。彼はギリギリのその時、「宗教と科学は別だと考えていますから」と言いました。そこで、今回、この重要な問題について、筆者の考えを述べます。

 筆者は、宗教と科学は完全に一つ、と考えています。これは、長年、生命科学者として生きて来た実感です。その経験から、生命は神が造られたとしか思えないのです。筆者にとって神への信仰と科学研究は完全に一致するものなのです。

 現代の唯物論的生命観からは、「生命は偶然の重なりによって出来た」と言われています。しかし、筆者はその考えには与しません。138億年かけて人間は、ビッグバンから始まる宇宙の発展原理や構造まで解明できるようになりました。これはすごいことです。この宇宙の誕生から進化も含めて、偶然の積み重ねと言うには余りにも飛躍があると思うのです。人間はもちろん、あらゆる生命も、山も川も草も木も、そして宇宙全体も、神が造られたものに違いありません。
 
 生命は神によって造られたという、筆者の信仰の基盤は、筆者自身がつかんだものです。誰から教えられたものでもありません。そのことをほんとうに嬉しく思うのです。

宗教と科学(2)禅は宗教か

 禅が宗教であるかどうかは色々な考えがあると思います。「当然じゃないか」と言う人も、「哲学である」と言う人も。筆者は、そのどちらとも少し違う考えを持っています。もちろん禅宗は宗教の一宗派です。あの曹洞宗永平寺にも本尊があり、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来です。釈迦如来は説明の必要はありませんね。阿弥陀如来は、無量寿仏、すなわち、「無限の寿命をもつもの」の意味で、西方にある極楽浄土を治める仏(東方は薬師如来)ですから、全宇宙を主宰する毘盧遮那仏(大仏)の一つ下の階級の仏のようです。 弥勒仏は、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏とされていますが、大乗仏教では菩薩のお一人(如来の下)と言われています。つまり、道元が選択した永平寺の本尊は、ちょっと首尾一貫していないようです。つまり、宗教であるような、ないような捉え方です。
 じつは道元の著書をよく読めば、完全に哲学であることがわかります。禅の思想は、カント、ヘーゲル、フィヒテと続くドイツ観念論哲学と共通するところが多いのです。あの西田幾太郎の「善の研究」もその流れを汲むものです。西田は、禅に造詣の深い鈴木大拙と無二の親友で、思想的にもお互いに影響し合っています。それで筆者は、「善の研究」は「禅の研究」だとみなしています。

 「悟り」。禅を学ぶ人ならだれもが憧れる境地でしょう。しかし、それがどういうものか、イメージが湧きにくいですね。「ハラリと悟った」「身を見出した」「絶対平安の境地」・・・。筆者はそれを「神と一体になった状態」と理解しています。その意味では、禅は宗教と考えます。むしろ、仏教を一足飛びに飛び越えたものだと思います。その一方で、まぎれもなく「哲学だ」と思っています。哲学は人文科学ですから、筆者にとって、ここでも宗教と科学が融合しています。

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