宮沢賢治の心(1)

 岩手県花巻市の宮沢賢治記念館へ行って来ました。じつはそこは記念館だけではなく、イーハトーブ館、童話村・賢治の学校などと一体になった総合的賢治記念地域でした。記念館には賢治作曲の「星めぐりの歌」を演奏したと思われるチェロがあり、その隣には賢治が臨終に当たって父の政次郎さんに「1000部印刷して皆さんに渡して欲しい」と言った「国訳妙法蓮華経」の実物と「歎異抄」が置いてありました。

 宮沢賢治が仏教に深く傾倒し、書いた小説が仏教思想を基盤としていることはよく知られています。父政次郎さんも浄土真宗の熱心な信者で、花巻仏教会の中枢会員として毎年仏教講習会を開いたりした人です。大沢温泉で夏に開かれた講習会には暁烏敏(あけがらすはや)などの有名な指導者を招いていました。賢治がその会に出席した写真も残っています。そして賢治は十六歳の時「歎異抄」に出会い、「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と言っています。その「歎異抄」の冒頭とは、

 ・・・・弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まをさんとおもいたつ心の発するとき、すなはち摂取不捨(絶対の:筆者)の利益にあづけしめたまふなり・・・・です。

 賢治はその後、初めて島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」を読んで感銘を受け、法華経に帰依することになりました。賢治は、法華経の自己犠牲衆生済度の精神に感銘を受けたことはよく知られています。すなわち、「自分よりも他人の幸せを願うことによって罪が許される」と考えたのでしょう。それは賢治の小説「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」「よだかの星」等々を読めばよくわかります。

 ただ、ここで筆者には大きな課題が残ります。と言いますのは、法華経も歎異抄も筆者はその価値に疑問があるからです。いずれもすでにブログに書きました(2017・5・21)。つまり、

 ・・・・法華経は「法華経はすばらしい、法華経はすばらしい」と書いてある「変な」経典だからです。もし、源氏物語に「源氏物語はすばらしい、すばらしい」と書いてあったら奇異な感じを受けるでしょう。後に「効能書きばかりで中身のない薬のようなものだ」と、平田篤胤が同じことを言っていることを知りました。さらに江戸時代の学者富永仲基も「自己賛辞ばかりで経と名付けるに値しない」と言っています。富永の言うように、法華経は釈迦の教えなどではなく、後代のインドの学者たちによる創作なのです。「釈迦が最後に説いた究極の教えだ」と言う人もいますが。ナンセンスです。

 「歎異抄」についての疑問もすでに述べました。「異を歎く」という弟子唯円の言葉どおり、「近頃の門徒の指導者は師匠親鸞の教えとは反することばかり言っている」と歎く文章なのです。「歎異抄」を高く評価する文人は多いのですが。

 ことほどさように、私にはなぜ筆者がこれらの経典を「唯一無二」と考えたのかわかりません。賢治の作品の素晴らしさと、この疑問とのギャップを埋めることが、長い間の課題だったのです。その疑問が賢治記念館へ行ってさまざまな遺品や言葉に触れて少し理解できたようです。

7 thoughts on “宮沢賢治の心(1)”

  1. 遥々東北までいってらしたのですね
    お年を召されてのその行動力は尊敬します

    私も法華経につきまして同じような思いをもっておりました
    ですが最近は違う思いをもっております。

    私はその答えが南無妙法蓮華経のこの一言に集約されていると感じます
    効能ばかりで中身がない法華経に、南無=帰依するということはつまり、それでもあなたは法華経を信じれますか?という裏返しなのだと思います 

    件のお上人はよくおっしゃいます
    信は智慧の種であると。

    つまり、南無妙法蓮華経から始まるのだと。そこから芽吹き、花開くのだと。
    そのきっかけが信であると。

    今のところはこのくらいしか私にはわかりません。
    法華経に親しむ者として次回のブログを楽しみにしております。

    1. 柴田様
       今回もよいお話をありがとうございました。御趣旨はよく考えてみます。なお、柴田さんからのご質問に対するお答えを明日アップする予定でしたが、ファイルがどこかに紛れ込んでしまいました。

  2. これだけ暑いと電子機器も調子が悪いんですかねぇ
    気長にゆっくりと待っておりますゆえ、お気になさならないでください

    私は件のお上人に不思議なご縁でお世話になっておりますが、法華経に疑念を抱きながらもかねてよりお上人の木鉦を叩き読経をするその姿に尊敬の念を抱いておりました。
    幾度の病におかされ、立つのもやっとのお体でも木鉦の音は力強く響き渡り、読経のお声にはハリがあり凄まじいエネルギーを感じてきました。
    一瞬も気を抜かず、この暑さや体の疲れを感じさせぬその気迫に私は魅せられてきました。

    私は法華経とお上人の真摯なその姿のギャップに不思議さを感じてきました。
    その答えを知りたくて今もお上人のもとに通っております。

    この問いを中野さんのお力をかりて少しでも答えに近づけられたらと思っております。

    1. 宮沢賢治の心(2)をお読みいただきましたか?
      追伸:私は高齢者と思ったことはありませんが(笑い)。数年前にはヨーロッパへも行ってきました。

      1. はい、拝読いたしました
        感性というのは納得できました。
        本阿弥光悦や葛飾北斎といった卓越した芸術家もまた日蓮宗・法華経を篤く信仰していたようです。
        私はできることならその先が知りたいです。
        彼らは法華経を通して何を感じとったのか?

        ヨーロッパですか!それは素晴らしい行動力ですね!(私は海外に一度もいったことがありませんので羨ましい限りです)

        1.  柴田さんがおっしゃる「まず信がある」という考えはとても危険です。カルト教団はどれも「まず信じさせる」を戦術として使っているのが特徴です。
          知性を以て判断することこそ、すべての人がカルトにハマらないために心掛けることだと思います。北斎や光悦はどうでもいいのです。ご自分の眼で判断してください。
          私はそうしてすべての既存の宗教を判断し、スクラップアンドビルトしたいのです。宗教はすべての人間にとって必要だと思いますから。
          この問題はまた書かせていただきます。
          ・・・・・・・
           柴田さんが吃音で苦しまれたのは私の想像を絶します。ただ、それがあって宗教に目覚め、禅へのきっかけができたのですから、じつは幸いだったのですね。「神は無駄をなさらない」とはこのことでしょう。
          私もあの時苦しいことが無かったらいまでも無宗教で「あんなものは信じられない」とうそぶいていたでしょう。

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