宮沢賢治の心(2)

 おそらく宮沢賢治は法華経や歎異抄の精神を感性でつかんだのでしょう。理屈でなく。筆者がこれらの経典が理屈の上からおかしいと思う心は今でも変わりません。

 じつは、宗教を感性で理解することはとても危険なことなのです。感性(と思ったもの)は間違うことがあるからです。「すばらしい」と思った宗教がじつはとんでもないまやかしだった ・・・。オーム真理教や旧統一教会問題、〇〇教、〇〇学会など、例は身近にいくらでもありますね。天才だったからこそ賢治は道を誤らなかったのでしょう。いや、賢治には、団扇太鼓をたたきながら花巻市内を行進したことや、あまりに執拗に法華宗への入信を勧めたために、親友の保坂嘉内から義絶されたこともあることなど、やはり異常と見える部分もあったのです。

 賢治の素晴らしさは、仏教を自分の形として表現していることです。詩や小説としてですね。じつはほとんどの宗教研究家は頭で考えているだけです。賢治の研究家についても同じです。そこが賢治との違いですね(註1)。

 賢治記念館の窓から新緑を通して北上平野の美しさを眺めていて、ふと次のような詩ができました。

・・・・・

「賢治の心」

 さらさらと 

 ブナの若葉を さらさらと 

 宮沢賢治の風が吹く

 私の心を さらさらと

 南無阿弥陀仏の風が吹く

 さらさらさらと 風が吹く

・・・・・・

註1私は、苦しい状況を打開するる知恵を得るために必死に禅を学びました。

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