読者のyconさんからのご質問:前回いただいたメールの中で、坐禅のとき意識を持たなくすることが大切とございました。この意識を持たなくするというのは、意識を失くすという意味ではなく、意識を意図的に動かさないというような意味になるのでしょうか?
といいますのは、何もしていなくとも寝ているとき以外は意識は常にありますし、坐禅中も意識は存在しているからです。
ちなみに私は現在坐禅会や自宅でも坐禅をしているときに心がけていることは、意図的に考え事をするようなことはせず、それでも勝手に思いに耽ってしまっていることに気づいた時は、それ以上続けないで坐禅に戻る(現在に戻る)ことです。
お答え:おっしゃるように、「意識を意図的に動かさない」という意味です。つまり、座禅のさい、意識をはっきりと持っていることが肝要です。その上、できるだけモノゴトを考えないことです。
「(座禅の間に)勝手に思いに耽ってしまっていることに気づいた時は、それ以上続けないで坐禅に戻る」
お答え:そのとおりです。ただ、あまり気にしないことが肝要です。
筆者は座禅の方法を、本やネットで色々調べました。しかし結局は、さまざまな試行錯誤をして自得したものです。yconさんもあとはご自分で体得してください。
ご質問:塾長様はこれまで坐禅の指導者の下で坐禅修行をされてきたのでしょうか?その方はどのような方だったのでしょうか?また、神道系教団での修行やスリランカでの修行経験もおありで最終的には禅こそというお考えになられたとのことですが、色々とやられてきた中で、それぞれお感じになれれたことはあったかと思いますが、なぜ禅こそと思われたのでしょうか?
お答え:ご指摘のように、私はスリランカ・キャンデイにある仏教道場で座禅をしました。スリランカ有数の指導者で、山中の洞窟で永く坐禅修行をしたこともある人とのことでした。ただ、そこで正式な指導を受けたわけではありません。見よう見まねでやっていただけです。私がその後所属した神道系教団では、座禅というより、信者は専ら受け身で霊能を高めていただくというやり方でした。修法はかなり効果的で、私など第一回目から強い霊動を起こしました。ただ、「受け身」と言うのが少々気になったのですが。10年後、別の神道系教団に移りました。前の同じ会員だったある女性から「今から新しく教団を作るので来てくれませんか」と誘われたからです。その人は後に教祖になられました。けっきょくその教団も10年くらいで離れました。理由はお話できません。その後はずっと一人で学び、修行をしています。
私には、それら教団とは中立的な立場で相談に乗っていただく方がいらっしゃいます。その方は、最初の教団の会員でした。わずかな期間でしたが。私が新しい教団に移るに当たっても、とくに疑問は呈されませんでしたが、「あれくらいの霊能者(新しい教団の教祖)ならいくらでもいますよ」とおっしゃったのが印象的でした。
ご質問:苦しかったとき、禅以外の道は考えませんでしたか。
お答え:私が禅を本格的に学び始めたのは60歳のころです。とても厳しい状況に陥ったためです。そして迷わず「禅しかない」と学び直すことを決心しました。yconさんは「なぜ禅こそと考えたのか」との疑問をお持ちですが、いま考えても不思議なくらい、禅以外には目もくれませんでした。