イスラム教徒に対する誤解(2)

 クレイシさんはパキスタン出身で、24歳の時ITを学ぶため日本へ留学しました。2年後帰国しようとしたとき、親しい日本の友人から「君は自分のため、家族のため、パキスタンのためだけに、君が学んだ知識を生かしていくつもりか、それとも広い見地に立って日本で困っている人たちのために働くのか」と課題を与えられたと言います。じつは、クレイシさんがそのような福祉活動に目覚めたのは、パキスタンの両親の影響でした。父親ムハンマドさんは大学教授。母親とともに熱心なムスリムで、「ジハード」の実践者でした。当時隣国アフガニスタンがソ連の侵攻を受けたため、大量の難民がパキスタンに流れ込んで来ました。ムハンマドさんはその一人一人に声をかけ、「お腹は空いていませんか、家へ食べに来てください」と言っていたとか。

 クレイシさんが帰国すべきかどうかムハンマドさんに聞いたところ、「日本の隣人のためにジハードを実践すべきだ」との答え。じつはムハンマドさんは大学退官後、サウジアラビアや企業などから好待遇で招かれた。しかし、それらを断り、貧しくて学校へも行けない子供たちのために自費で学校を立てたのです。もちろん授業料は無料です。しかも朝元気のない子たちが朝食抜きだったことを知り、クッキーを用意していたのです。ジハードとは「隣人のために奮闘せよ」ということですね。クレイシさんは日本留まりました。それから30年、クレイシさんは、やはりムスリムである日本人の夫人と4人の子供たちに恵まれ、今は車の輸出を生業とし、その傍ら、ムスジド大塚を拠点にして幅広い福祉活動をしています。

 クレイシさんはあのムスリムの過激なテロ活動には反対です。「およそジハードの教えには反するものだ」と。それはこれまでのクレイシさんたちの活動からもよくわかりますね。もう一つ印象的だったのはクレイシさんが「ムスリムに対する日本人のネガテイブな印象の原因にはマスコミの報道姿勢にもある」とくり返していたことです。

 じつはそれを筆者も感じていました。ウサマ・ビンラデインは過激派の頭目としていつも報道されていましたね。ただ、筆者にはかれらのテロ活動の理由の一端もわかっていました。たとえば、アフガニスタンには一時8万人の米軍兵士が駐留していました。もちろん政治的な意図があったからですが、ムスリムの人たちには「聖地に土足で入って来たと感じ、耐えがたいことだった」だったのです。それがNY貿易センタービルへの突入にもつながったというのです。筆者はかねて「日本のマスコミは大衆の正義に迎合した報道姿勢を取っている」と考えています。私たちは「正義」を振りかざしてはいけないのです。「正義」を口にするとき、つねに相手の事情もよく考えねばなりません。

 これが筆者がムスリムに対する誤解と偏見から目覚めた事実です。

イスラム教徒に対する誤解(1)

 NHK「こころの時代」で、イスラム教徒(ムスリム)について筆者がこれまで抱いていた大きな誤解に気付かされました。

 大部分の人はイスラム教徒と言えば、過激なテロ思想の持ち主というイメージを持っていると思います。なんといっても2011年のニューヨーク世界貿易センタービルへの乗っ取り旅客機の突入が思い出されますね。乗客と貿易センタービルに居た日本人を含めた3000人の犠牲者が出ました。貿易センタービルは、以前筆者も見たことがある瀟洒なツシンタワーでしたから、次々に旅客機が突っ込み、ついにはビル自体が崩壊して行く姿をリアルタイムで見て衝撃的でした。その他、過激派テロ組織IS(イスラム国)の行動、アフガニスタンのタリバン政権による女性差別、少年をジハード(聖戦)と言ってだまし、自爆テロを起こさせることなど、例を挙げればいくらもありますね。これらの状況を見れば、世界の人々がイスラム教徒についてきわめてネガテイブな印象を持っていても無理はないでしょう。

 しかし、前述のNHKテレビ番組で、ムスリム(イスラム教徒)であり、これまで東京のマスジド(モスク)大塚の事務局長をされてきたクレイシ・ハールーンさん(59)のお話を聞いて驚きました。まず、上記の聖戦(ジハード)の正しい意味は「奮闘・努力」だったのです。しかも後述するように「隣人のためにする努力」だと、聖典クルアーン(コーラン)にも銘記してあります。

 クレイシさんたちの福祉活動は毎月一回、近所の公園で日本人ホームレスを含む沢山の人たちに食事を提供しています。トルコ料理店から60キロの鶏肉を寄附して頂いたり、別の商店から玉ねぎを一箱提供されたりして、活動を続けているのです。クレイシさんは日本に来た当初、「パキスタンよりはるかに豊かな国なのに、どうしてこんなに貧しい人たちがいるのか」と驚いたとか。近所の川の橋の下にはホームレスの人たちがいたのです。クレイシさんは学生時代からその人たちにも食べ物を差し入れていたとか。

 しかし、当初はその活動は中々近隣の日本人たちには受け入れられなかったようです。「どうしてあんな人たちを助けるのか」と。その後、礼拝の場を作るため、クレイシさんたちは空き家になっていた小さなビルを手に入れ、2000年にマスジド(モスク)大塚を作りました。しかしそれさえ大きな抵抗があったとか。その極めつけがあのNY世界貿易センタービルへのテロ攻撃でした。しかし、近隣の人たちの認識を一変させたのが、東日本大震災の被災者に対するクレイシさんたちの援助活動でした。クレイシさんは東日本大震災の被災者救援に赴むこうとしたとき、警察や近所の人たちから好意ある反対の言葉を投げかけられたと言います。「あなたの身が危ない高速も止まっているし、いつ余震や津波があるかもしれない」と。奥さんからも「止めて欲しい」。クレイシさんも迷いました。そこでクルアーンを開いてみました。すると「アッラーのためにジハードしなさい。かれはあなた方を選ばれた」の一節が目に飛び込んできたのです。クレイシさんらは被災地へ行きました。そしてマスジド大塚の近所の人たちはもちろん、キリスト教団から仏教寺院まで賛同を得て、現地で一日8000食のおにぎりを提供したのです。

禅の心(1)

 私があるところで皆さんに禅のお話をしていた時のことです。出席者の一人から「よいお話ですが、私は高齢ですから、禅を十分に学んで理解するには時間がありません。どうしたらいいでしょうか」という質問がありました。70歳台の男性でした。正直なお気持ちと思います。「これからの人生で起こって来る一つ一つの場面でいつも神の心で判断し、行動してください」とお答えしました。つまり神の心に近づくことです。

 「禅の悟りとは神と一体化すること」とお話してきました。異論のある方もいらっしゃいますが、私はそう思うのです。

 もう一人の出席の方から「私はなんとか生きてきましたが、人生で何も誇るものがありません。悲しいです」との発言がありました。私はその人に「いえ、あなたが生まれた時、お父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんがどれほど喜んだことでしょう。そしてこんどはあなたの子供さんがどれほどあなたを信頼し、心の支えにしてきたかを考えてください。あなたの人生はそれだけでも価値あるものだったのです」とお話しました。それらは決して過去のものなどではないのです。天にはアカーシックレコードというものがあるそうです。そこにはすべての人の人生が確実に記憶されているのです。

 次は私個人のことです。筆者が高校生のころ、父親の事業が時代の流れから取り残され、一家は苦しい状況になりました。その中で両親や兄弟姉妹の好意と犠牲で大学、大学院と進むことができました。その後研究者の道へ入り、満足できる人生を送りました。今思い出しても感謝しかありません。その後父親の遺産相続の話が出た時、すべての筆者の相続分を弟に譲りました。当然のこととして。しかし、それがかえって後に弟妹の争いになってしまったのです。結果としてそのときの判断が裏目に出てしまいました。とにかく問題は解決しましたが、今でも弟妹とその家族にはしこりが消えません。今でも「私は正しかったのか」との悩むのです。しかしあるとき、ふと、「いや私たちの思いと行動はすべてあの世の両親や祖父母、さらには天には見通しのはずだ。何も心配することはない」と気付いたのです。

霊との付き合い方(3‐2)

 読者の柴田さんとの対話(続)

柴田:先日も日蓮宗のお上人とお会いして霊の話をしました。
お上人曰く、
・・・・・霊感があるだけでは霊を恐れるだけだ。かつての自分も霊を恐れていた。観応(筆者註)をひらくことだ。そうすれば霊を説得でき、成仏へ導くことができる。観応をひらくには、捨て身になって行じつづけること。霊も人も動物も同じだ。全てを仏様にお任せてして、捨て身になって説得すれば通じる。人だろうと霊だろうと。霊を恐れるのは、捨て身になれていないからだ。我が身を大事に考えているから、見透かされているのだ。と、霊を特別視せず、他の生物と又は他の物事と一如としてみること。それが大事なのだと。
また一つ、気付かされました。中野さんありがとうございます。

中野:私は霊をむしろ気の毒な存在と考えています。ご縁があったら、その時は特別な修法を以て成仏させてあげようと思っています。去年も霊感の強い人が訪ねてきて、「憑依されているので助けて欲しい」と。私は霊に向かって「この人に取りついていてもこの人が苦しいだけです。あなたを光明輝く世界へ送って差し上げます」と、ある修法をしました。憑依による苦痛がなくなりましたから、成仏されたと思います。

註 上人のおっしゃる「感応をひらくこと」の意味が筆者にはよくわかりません。

柴田:私も基本未知の世界に対して好意的にとらえる性格ではありますが、中野さんに言及されて霊的体験を当たり前のようにネガティブなものとらえていることに気付かされました。そして、中野さんが霊的体験を前向きにとらえられたのが凄いと思いました。
 霊能力開発においてネガティブな体験もされたと思いますが、どうして前向きにとらえつづけられたのか?に興味が湧きました。私は生から死そして生へと繋がる循環から外れたイレギュラーな存在が霊だと思ってます。

中野:霊とはイレギュラーな存在とのお考えは良いと思います。私は霊的体験を前向きにとらえたというより、未知の世界に興味を持ったということでしょう。前述のように、そういう霊を気の毒に思い、何とか助けたいと思います。助けるための修法も習いました。

柴田:おっしゃるとおりだと思いました。私も霊については軽率に扱ってはならない話題だと思います。中野さんは本当に思慮深くお優しい方ですね。
 私がお世話になっているお上人曰く「霊はみずから成仏することはできない」そうです。その慈悲の心をもって迷える霊を命の循環の流れに戻せることを陰ながら応援しております。私も基本的に未知の世界に対して好意的にとらえる性格ではありますが、中野さんに言及されて霊的体験を当たり前のようにネガティブなものとらえていることに気付かされました。そして、中野さんが霊的体験を前向きにとらえられたのが凄いと思いまし

中野(まとめ):霊にみだりに近づくのは良いことではありません。よく「心霊スポット」へ遊び半分に行く若者の話を聞きますが、もっての外です。よく「霊とは敵対するもの。近づいてきたときは払うべきもの」と考えられていますが、私の考えは別です。助けを求めてくる場合もあると思います。その時は可能ならば助けてあげたいと思うのです。

 ブログでもお話したように、私は10年にわたってある神道教会で霊能開発修行ををしました。べつに霊能を開発したかったわけではなく、その教会へ入ったらそこではそういう修行をしていたのです。その結果、のべつ霊を体感するようになりました。とにかく独特のしんどさがあるのです。教祖様に相談すると、「あと一歩で霊能者になる」と。そこへの道を閉じていただきました。私の本務は研究と教育です。霊能は趣味で発揮できることではありません。それなりに義務が伴うのは当然でしょう。

霊との付き合い方(3‐1)

 読者の柴田さんとの対話(その1)

 以下は、霊に関する読者の柴田さんとのやり取りです。他の皆さんの参考になると思いますのでご紹介します。

柴田:私の霊的体験です。
 ・・・・わたしの知人で古民家カフェをやっておられる方がいらっしゃいまして、その方から頼まれて古民家(明治時代)の蔵から雛人形(江戸から明治)を飾るために取り出し、帰宅した後のことでした。まず違和感があったのが、部屋の軋む音が明確に増えたことでした。それが日を追うごとに増えてゆきました。
 そして、3日後の夜 不思議な夢をみました。なにかの眼が私をみつめているのです。その眼はだんだん増えてゆき20弱に増えたのち一つの巨大な眼になり私をただただみつめていました。そのとき、わたしは確信しました。これはあの雛人形に憑いている霊で、急にわたしが蔵に入り彼らの大事な雛人形を断りもなく持ち出したために、この人はどこの誰で何者?と思っているのだと。

 その後、知人にこの事を話して再び雛人形の前に立ち自己紹介をして、断りもなく大事な雛人形を運んだことを詫びました。それから不思議なことはぴたりとやみました。

後日譚 古民家の蔵にあった雛人形は実は委託で管理を頼まれているもので所有者は別におられました。所有者にお会いしてこの事を話したところ、所有者の方もその蔵で雛人形の手入れをするときには何かによく髪の毛を触られたり、肩に手を置かれたりすると話していらっしゃいました。 

 実はわたしもその古民家の蔵からはただならぬ気配を常に感じておりましたが、その時はまあ大丈夫だろうとたかをくくってこの始末でした。

差し支えなければ是非、中野さんのお考えになる霊という存在についてお聞きしたいです。 

中野:雛人形ばかりでなく、人形と言うものは安易に貰ったり触ったりするものではありません。以前の持ち主の並々ならね(愛情ですね)が籠っているからです。お話を伺うと、柴田さんは霊に対してネガテイブな印象をお持ちのようですね。

柴田:・・・・霊に対してネガティブな考えをもっているのはその通りです。
 それはお世話になっている日蓮宗のお上人が霊に対してネガティブな考えをおもちだからです。(その方はかつて厳しい修行を重ねてきて、今では寺を持たず最低限の布施にて慎ましく暮らしておられます。わたしの尊敬する方です)。その方は幼少期より霊に苦しめられ日常生活に支障をきたし霊と対峙できる方法を探し僧侶になられた方でした。常々、霊はみえない、感じない方がいい。とおっしゃられています。(霊と生半可な向き合い方をすると痛い目をみるからだそうです)なので私もその考えに影響されております。