霊との付き合い方(3‐2)

 読者の柴田さんとの対話(続)

柴田:先日も日蓮宗のお上人とお会いして霊の話をしました。
お上人曰く、
・・・・・霊感があるだけでは霊を恐れるだけだ。かつての自分も霊を恐れていた。観応(筆者註)をひらくことだ。そうすれば霊を説得でき、成仏へ導くことができる。観応をひらくには、捨て身になって行じつづけること。霊も人も動物も同じだ。全てを仏様にお任せてして、捨て身になって説得すれば通じる。人だろうと霊だろうと。霊を恐れるのは、捨て身になれていないからだ。我が身を大事に考えているから、見透かされているのだ。と、霊を特別視せず、他の生物と又は他の物事と一如としてみること。それが大事なのだと。
また一つ、気付かされました。中野さんありがとうございます。

中野:私は霊をむしろ気の毒な存在と考えています。ご縁があったら、その時は特別な修法を以て成仏させてあげようと思っています。去年も霊感の強い人が訪ねてきて、「憑依されているので助けて欲しい」と。私は霊に向かって「この人に取りついていてもこの人が苦しいだけです。あなたを光明輝く世界へ送って差し上げます」と、ある修法をしました。憑依による苦痛がなくなりましたから、成仏されたと思います。

註 上人のおっしゃる「感応をひらくこと」の意味が筆者にはよくわかりません。

柴田:私も基本未知の世界に対して好意的にとらえる性格ではありますが、中野さんに言及されて霊的体験を当たり前のようにネガティブなものとらえていることに気付かされました。そして、中野さんが霊的体験を前向きにとらえられたのが凄いと思いました。
 霊能力開発においてネガティブな体験もされたと思いますが、どうして前向きにとらえつづけられたのか?に興味が湧きました。私は生から死そして生へと繋がる循環から外れたイレギュラーな存在が霊だと思ってます。

中野:霊とはイレギュラーな存在とのお考えは良いと思います。私は霊的体験を前向きにとらえたというより、未知の世界に興味を持ったということでしょう。前述のように、そういう霊を気の毒に思い、何とか助けたいと思います。助けるための修法も習いました。

柴田:おっしゃるとおりだと思いました。私も霊については軽率に扱ってはならない話題だと思います。中野さんは本当に思慮深くお優しい方ですね。
 私がお世話になっているお上人曰く「霊はみずから成仏することはできない」そうです。その慈悲の心をもって迷える霊を命の循環の流れに戻せることを陰ながら応援しております。私も基本的に未知の世界に対して好意的にとらえる性格ではありますが、中野さんに言及されて霊的体験を当たり前のようにネガティブなものとらえていることに気付かされました。そして、中野さんが霊的体験を前向きにとらえられたのが凄いと思いまし

中野(まとめ):霊にみだりに近づくのは良いことではありません。よく「心霊スポット」へ遊び半分に行く若者の話を聞きますが、もっての外です。よく「霊とは敵対するもの。近づいてきたときは払うべきもの」と考えられていますが、私の考えは別です。助けを求めてくる場合もあると思います。その時は可能ならば助けてあげたいと思うのです。

 ブログでもお話したように、私は10年にわたってある神道教会で霊能開発修行ををしました。べつに霊能を開発したかったわけではなく、その教会へ入ったらそこではそういう修行をしていたのです。その結果、のべつ霊を体感するようになりました。とにかく独特のしんどさがあるのです。教祖様に相談すると、「あと一歩で霊能者になる」と。そこへの道を閉じていただきました。私の本務は研究と教育です。霊能は趣味で発揮できることではありません。それなりに義務が伴うのは当然でしょう。

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