V.フランクルのロゴセラピー(2-2)

 以下は上記の「夜と霧」および「フランクル回想録20世紀を生きて」 山田邦男訳から。

 ・・・・(フランクルの言葉)誰も家で私を待っていてはくれませんでした。唯一私を待っていたのは、〈誰か〉ではなく、〈何か〉でした。それはロゴセラピーの本を書くことです。大きな「意味」に応えることや、自分を越えた何かへの愛によって、人はより人間らしくなり、それが人生の苦境を乗り越える支えになるのです。・・・・テユルクハイムの指揮官でナチスの親衛隊隊長であったホフマン氏のことです。ホフマン氏は町の薬局で自腹を切ってユダヤ人の被収容者たちのために薬を買っていました。皆さんの言いたいことは分かりますよ。批難でしょう?「フランクルさんそれは例外だということを忘れてはいけませんよ」と。そのとおりこれは例外です。しかしこうした例外こそが人間には必要なのです。お互いが理解し、許し、和解に至るためには私たちが多くのことをないがしろにしてきたのは事実です。しかし、相手を責める前に、まずは心から理解しようとし、思いやってください。今、私たち一人一人の両親は呼びかけを受けています。

 たとえば、こんなことがあった。収容所の現場監督(つまり、被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。私はそれが、監督が自分の朝食から取り置いたものだということを知っていた。あのとき私に涙をぽろぽろこぼさせたのはパンというものではなかった。それはあのときこの男が私に示した人間らしさだった。人間とはガス室を発明したと同時に、ガス室に入っても毅然として聖書の言葉を口にする存在でもあるのだ・・・・。

(解放されて帰郷してから)

 私は友人のパウル・ポラノクを訪ね、私の両親、兄、そして(妻)テイリーの死を報告した。今でも覚えている。私は突然泣き出して、彼に言った。「パウル(友人:筆者)、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには何か意味があるはずだよね。何かが僕に期待している、何かが僕に求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。・・・・フランクルは完全に打ちのめされた。もはや生きる気力もなくしていました。友人たちはそんなフランクルに病院での仕事とこのアパートを紹介しました。さらにフランクルが本の原稿の作成に打ち込めるようにタイプライターを探し出しました。借用書には「私はこのタイプライターを必要としています。なぜならテユルクハイム収容所で書き始めた本の続きを書きたいからです」・・・・解放から8ヶ月、遂に最初の作品が出版された(〈医師によるメンタルケア〉。フランクルはその中に自らの強制収容所体験を書き加え、かって20代で発想した心理療法ロゴセラピーを発展させた。

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