旧統一教会会員の山さんから(3)

 1)献金について


 新興宗教にいたときよりも、キリスト教には、神様の赦しがあると、感じました。裁く心は、ゆるせない、償いを要求する心と聞いたことがあります。それが、人でも、あえて神でも当てはまると思いました。なにか相手に対して自らの過失や罪を弁償するために、相手に尽くす信頼を回復するための努力は、することは、社会の中であることだと思います。それが、旧〇〇の新興宗教内での場合には神様に罪を赦してもらうために感謝して、献金したり捧げ物を供えたり、奉仕する。神の裁きを怖れる心がある、とおもいます。例えば旧約聖書には、罪のない動物を供え物としたり、最愛の息子イサクを供え物にするという箇所が出てきます。また、三位一体でのキリストは、人類のために最愛の息子が、神に捧げ物にされました。聖なるものが供え物になることが尊いということです。
 旧〇〇の新興宗教の教えでは、高額献金でも少額献金でも、その聖なる心が供え物として初物として、神に喜ぶとばれる聞きました。特に十分の1献金というものがあります。キリスト教では、十分の1件金の有無は教派によります、旧約時代の伝統だと思います。生かされ与えられた感謝として献金したり、会費や教会建堂協賛金や維持費なども募ります。裁きの神というものは、償いとして、行いを要求する。清い心や行いは、献金や清い奉仕も、その一部です。
 キリスト教は、償いはキリストが負って下さり、人々はその勝利により赦されていることを受け入れ、罪を犯さないように神の助けを受けながら生きる。人間ですから罪はおかしてしまいますが、神様に立ち返ることが悔い改めることだと、学んだと思っています。生きているうちは、義とされたゆるされた罪人というのが、人の立ち位置です。

筆者のコメント: 私は、カルトかどうかを見極める基準の一つは、「多額の寄付を要求するかどうか」だと思っています。たしかに寄附も一つの方法で、宗教の専従職員の生活もある程度援助するのは当然でしょうが、限度があるはずです。旧○○教会のように、「罪を償う手段として」多額の寄附を求めるのは、人間の弱みにつけ込んだ卑怯なやり方です。

  私も以前属していた神道系新興宗教の教祖から「寄附は給料の10分の1」と言われたことがあります。わざわざ「手取り額ではなく、税金が引かれる前」と付け加えて。かなりの金額ですね。一方、NYのキリスト教会では、係の人が棒の先に着いた籠を差し出して、寄付を募っていました。「金額は自由、出さなくてもいい」ですね。

  2)ゆるしと癒やしについて
 わたしは、神になりたいと思ったことはなく、神の似姿のように、清く愛のある人格のある人になりたいと若いときは思いました。しかし、ゆるしや愛など本当に難しい課題があって、自分が裁判官のようにゆるす、ゆるせない、をやってきました。悪い行いは許せず繰り返さない努力が必要ですが、その人その存在自体が赦せない、人間関係の痛みもあります。恕すのは思いやりもない、自分の罪よりも、うけた被害のほうが大きいと、まだかかえている思いもあります。怒りは赦すための、ステップなのだと、おもえば、いきなり赦しますと、祈るよりも、赦せません、み心になりますように。

 筆者のコメント:罪を犯したことのない人はいないでしょう。「赦しや償い」は宗教の大きな問題ですね。ブログにも書きましたが、ベトナム出身の禅僧テイクナット・ハン師はこう答えています。

 ベトナム戦争で仲間を殺された元アメリカ軍兵士が、復讐としてその村の子供たちに毒入りのサンドイッチを食べさせ、殺してしまった事件があります。その兵士は罪の大きさに苦しみ続けていた・・・・・。ハン師は 「これからできるだけ世の中のために尽くしなさい」と。驚きませんか!ハン師の母国の子供たちなのです。日本人だったら血が逆流する思いでしょう。神や犠牲になった子供たちにに許しを乞うたとて心が軽くなるはずはありません。それより、たとえ100億分の一ずつでも世の中に返していくより生きる道はないでしょう。

 復讐は神に任せよと、御言葉があります。怒りにふれる復讐する神とすることは、わたしも、復讐される可能性があります。
ただしく、定められた人の道にのっとれるように、和解ができなくても赦すことはみ心だと思います。ゆるせない人を赦せとは、諸刃の剣のようなメッセージです。

「これ他を赦すのも、心理的プロセスで、自分が癒やされた分、天からくる思い」なのかもしれません。まだ体験していない思いなのです。キリストは、恥も拭われると、聖書には50箇所以上出てくると礼拝で聞いたことがあります。
赦しと、さらに、癒やしがあるといいます。ひとは、癒やされることが、必要です。

筆者のコメント:私は最近、「赦」しについて考えていたとき、突然「神の心を生きる」との言葉が浮かびました。 「復讐は神に任せよ」も良い言葉ですね。ただし、被害者は加害者の罪を忘れてはいけません。「逆も然り」です。「ゆるす」とはがまんすることではないのです。堂々と立ち上がり、法に則った告発をすべきです。山上君の事件があったからこそ、政府も真剣に旧○○教会問題に向き合い、国民も他人事と考えなくなりました。

 3)キリストについて
 神様はキリストをお与えになるほどにこの世を愛されたと、あるように、神への全き愛、犠牲の愛、キリストの十字架には、神と子の苦しみ悲しみがありました。神様による救いには人間への痛みが伴い、神の愛の広さも高さも大きさも、想像を超えたものであります。神と人との回復には、神様の心情を慮り、神への謝罪と感謝、賛美がわいてくるものだと思います。その、意志も、愛する力も、神が与えてくれた賜物であり、人は完全な自己信頼による生き物ではないと、云えると思います。

筆者のコメント:NHK「こころの時代」を見ました。ウクライナで活動する舟橋牧師の言葉には学ぶところが多かったです。ただ、神についての私の考えとは少し違うところもありました。それはキリストの立ち位置についてです。クリスチャンは、キリストを「人間の罪を代わっていただいた存在」と考えていますね。私はその点が希薄です。私と神にはキリストは介在しておりません。

追記:神に感謝することはもちろん大切ですが、一度あなたの周囲を振り返ってください。両親の無償の愛、恩師や知人の山さんに対する親切・・・・。私など、この歳になって両親や恩師の会いに報いることが少なかったことを後悔する日々です。

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