旧統一教会会員の山さんから(2)

 元統一教会の会員で、さまざまな辛い体験をした「山さん」の告白です。前回のコメントについて筆者が感想を述べました。今回はそれに対する「山さん」の追加のコメントでした。

 中野様
 こんにちは、ブログの更新を今日拝見しました。この度は図々しくも、ありがとうございます。キリストについては超自然的なもので、なぜか理屈は分からないけれど、憐れみを受け心開かれて信じることになるという体験がありました。それでも、神の恵みによる歩みになるよりも、自分でこうしないとと心の穴を埋めるように努力して、余計に自尊心が傷ついていたと思います。

筆者のコメント:「憐れみを受け心開かれて信じることになるという体験がありました」とは、「初めて神の愛を感じて心が開かれた」という意味でしょうか。もしそうなら貴重な体験をされたと思います。また、「神の恵みによる歩みになるよりも、自分でこうしないとと心の穴を埋めるように努力して、余計に自尊心が傷ついていた」の意味がよくわかりませんが、自己批判がかえって自分を否定することになった」ということでしょうか。それなら「信仰の道とはそういうものです」といいたいのです。


 しかし、様々に喪失したときに、恵みによる生かしを人は感じるのではないでしょうか。

筆者のコメント:「順風満帆の人生を歩んでいる」と感じている(誤解ですが)人には宗教は不要でしょう。さまざまな苦しい状況にある人こそ、「それでも生かされている。よいところもある。これは神の恩寵である」と感じることがあるのではないでしょうか。それらは貴重な「気づき」ですね。


 俗に言われる悪魔信仰というのは、自分が神になってしまうことだそうです。アダムとイブが神から離れたというのは、そういう心だったのです。

筆者のコメント:悪魔信仰の意味がよくわかりませんが「自分は神である」と過信することでしょうか。山さんご自身がそう考えたことがあるのでしょうか。


 自分が何処から生まれてきたのか、どこに行くのか、誰も見たことがありません。そして、各々の宗教が交流してぶつかってきました。いまは、他の宗教について、多元主義によるものも学びましたが、キリストでなくてもいいのではとキリストの存在があやふやになるのだと危惧感もあります。キリスト教が排他的と言われる所以は、唯一の神キリストを礼拝する、一対一の妻と夫を愛する、人のもの、家を欲しがらない姦淫の罪を犯さないという誓約の制約が、排他的と写り、つながるらしいのです。しかし神と家族との誠実な関係を保つことを願われているというわけです。宗教上の人間関係は、ドグマが異なり、いざこざもおきやすいです。
所感を話しまして、不快な内容でしたら申し訳ありません。
ありがとうございます。山

失礼します。

筆者のコメント:さまざまな宗教・宗派が現実としてあるわけですから、人々の取る態度は「多元主義、つまり、それらの共存を認めるか、他宗教を排撃するかでしょう。どちらを取るかは個人の問題ですね。どちらが正しいという事はないでしょう。

 ブログに取り上げられた内容で辛い内容が伴いますが、誤解を解くために簡単にコメントをしたいので、失礼します。キリスト教の人にそそのかされたというのは、伝道が騙されたなどの話ではありません。職場やサイトで色んなクリスチャンがハラスメント問題を起したことでした。私達は被害を受けてつらく、現場責任者に訴えました。わたしは子供の頃に宣教師に伝道されましたので、その人たちに、伝道されたわけではありません。

筆者のコメント:事情はよくわかりました。

 また、視野を広げて下さいと言われたことに置きましては、カルト異端にいたことを全否定する牧師がいるのでその人たちの元で学ぶうちに、その健全性がカルトなのではとおもいます。認めないと、いろんな価値観と救済人たちが、洗脳を解こうと押し付けてくるのが、辛いことがありました。色んな人がいると思います。

筆者のコメント:おっしゃることはよくわかります。「旧統一教会は悪い」と全否定する人がよくいますが、それでは旧統一教会の教えを支えにしてきた信者たちの人生を全否定することになってしまいます。エホバの証人でも、あのオーム真理教でも同じことですね。こういう問題を扱う人は、安っぽい正義感が信者を苦しめることもあることを心しなければなりません。

 尚、聖霊体験を説明するのはわたしには難しいのですが、神に愛されていることを感じ、信じたいと聖霊により心を開かれ、神の救いと愛の賜物を受け入れる、超自然的なことだそうです。

筆者のコメント:長年信仰の道をたどってきた筆者にはよくわかるような気がします。習慣的な信仰と本物の信仰の違いはそこだと思います。あるとき「ハッ」と気付くのです。

 信仰は、努力や求めた度合いや、信心や信念ではなく、人格的神との信頼の始まりだと思います。罪を洗いざらい神に告白したから救われるのや、何よりも功徳により認められるということはありません。

筆者のコメント:そのとおりですね。「正しい信仰とは、人格的神との信頼の始まりだ」

はとても良い言葉だと思います。あらためて「神を信じるとはどういうことか」を考えさせられます。

 神の前にすべてのものは、等しく愛される存在で神の作品です。罪を犯したアダムとエバの時から原罪があります。キリストの十字架と復活により、罪を贖われている。ペンテコステでイエスが復活して聖霊が、信じるもののなかに内住されると聞きます。キリストが地上に生きているときは、弟子たちや信じる者たちの中に、まだ聖霊は内住していませんでしたそうです。


筆者のコメント:「イエスが復活して聖霊が、信じるもののなかに内住される」の真意は私にはよくわかりませんが、キリスト教神学の奥深いところなのでしょうね。

 なぜ悪魔や悪、原罪や罪が生かさているのかは、それらを無くしてまえば、原罪ある人間も無くならなければなりません。神のジレンマです、神が受肉され、キリストが人間の友となり、裁判にかけられ、悪に勝たれ十字架の勝利と復活は、人々を救いに招いてくださいました。救済論は宗派により異なります、ここでは触れません。

ヨハネの黙示録では、霊的存在のサタン悪魔は、救われる対象ではなく、硫黄の中に投げ込まれ終わりの時に、滅亡すると学びました。天国には悪魔サタン、悪や罪はありません。

筆者のコメント: 「なぜ悪魔や悪、原罪や罪が生かさているのかは、それらを無くしてまえば、原罪ある人間も無くならなければなりません。」の部分については私は別の考えを持っています。すなわち、「原罪ある人間は無くならなければならない」のではなく、「神は、人間が自分の原罪に気付き、心の在り方を改めることを見守って下さっている」のではないでしょうか。それが神の慈愛だと思いますが。

 また、超自然的なことは、様々な霊感のスピリチュアルな現象ではなく、神様が全てのものを創造し、愛している、救いたいと切に思われている。その御手が各人に届くのは、聖霊が内住されるであり、聖書の御言葉からの愛であります。

筆者のコメント:さまざまな心(神)霊現象は、「正しい信仰への気付き」を促す神のメッセージということでしょうか。


 そして、罪や恥に悩む人も、もう神の怒りに怖れるのではなく、神を信頼して心の咎を打ち明け、赦されていると感じる、辛いときも祈れないときも信仰に悩むときも、委ねるようになってくると思います。それ以上でもそれ以下の添加物はなく霊能者や憑依でもありません。

筆者のコメント:正しい信仰とはなにかを改めて考えさせるとても良い言葉ですね。

 聖書のヨブは、賢い信仰深い人でしたが、人間は原罪があり、この世はサタンが支配している側面があるので、様々な試みに合われたのだと思います。人からの裁きやサタンや悪魔に怯えるよりも、良き方である神を信頼することに行き着くと思います。この前も冤罪の方が、無事釈放されましたが、小さな罪は皆持っていますが、無実の罪の濡衣を着せられたご当人様方は、ヨブ記の人々のようだと、語られる方もおられます。
わたしは聖書を全て学んでないので、間違いや中核のメッセージから遠いと思います、不足ながら書き込みさせてくださり、申し訳ありません。失礼しました。

筆者のコメント:「心から神を信じれば何も恐れることはない」・・・・この言葉が最近私の心に浮かびました。

 神のように生きるのが罪かどうかについて、私なりに考えますと、神の権威、キリストの権威を人間は持つことはありません。人間は神ではないためです。

筆者のコメント:この部分は私にはよく理解できません。


 神様の子供の立場を、与えられたことを感謝すると、ある牧師が本でかかれているようです。これは、神様の子供として歩むことを喜ぶということだと思います。創造本然の姿を神との信頼関係交わりの中で気付かされ、与えられた天分を生かしてゆく、健全な自尊心や自愛、他者理解を育むように、導かれるのだと思います。生きているときに、完全でなくても、死後の世界天国では完成した霊的な存在になり、復活を約束されています。神を愛せよ、隣人を愛せよ。十戒を守る、全て完璧に完全な人はいません。神は、善人ではなく、罪人を招かれたとあります。終末論、救済論に置きましては、色んな神学があるようなので、ここではお答えできずすみません。ご了承ください。

 事故にあっても、災難にあっても、ハレルヤーと言える方々は、この世の何よりもキリストを尊び、どんな状態でも喜びがあるのだと思います。キリストには変えられません。この世の何ものに(?)も讃美歌がありますように。超越的自我の世界のようです。人は、与えられた天分を果たすことですが、それが目的ではなく、生きる内での喜びであるのではないかと思います。きっと祈れないときも、本や聖書を読めないときも、ゆるしなさいという言葉が諸刃の刃で反発する怒りのときも、愛せないときも、病に悩むときも、どん底でも、運命と諦めず、神様助けてください、早くしてくださいと、子供のように喚ける場所があること。そして、時を待ち、御心に従い、立ち返る自己を挑越した神を信頼できることは、大いなるものに委ねられる安心平安なのではないかと感慨深いものがあるのです。

筆者のコメント:以上、山さんは「正しい信仰とはなにか」について深いところまで考えていらっしゃるように思います。それも旧統一教会を含め、さまざまな宗教を体験されたことよるものでしょう。決して無駄ではなかったですね。

V.フランクルのロゴセラピー(2-2)

 以下は上記の「夜と霧」および「フランクル回想録20世紀を生きて」 山田邦男訳から。

 ・・・・(フランクルの言葉)誰も家で私を待っていてはくれませんでした。唯一私を待っていたのは、〈誰か〉ではなく、〈何か〉でした。それはロゴセラピーの本を書くことです。大きな「意味」に応えることや、自分を越えた何かへの愛によって、人はより人間らしくなり、それが人生の苦境を乗り越える支えになるのです。・・・・テユルクハイムの指揮官でナチスの親衛隊隊長であったホフマン氏のことです。ホフマン氏は町の薬局で自腹を切ってユダヤ人の被収容者たちのために薬を買っていました。皆さんの言いたいことは分かりますよ。批難でしょう?「フランクルさんそれは例外だということを忘れてはいけませんよ」と。そのとおりこれは例外です。しかしこうした例外こそが人間には必要なのです。お互いが理解し、許し、和解に至るためには私たちが多くのことをないがしろにしてきたのは事実です。しかし、相手を責める前に、まずは心から理解しようとし、思いやってください。今、私たち一人一人の両親は呼びかけを受けています。

 たとえば、こんなことがあった。収容所の現場監督(つまり、被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。私はそれが、監督が自分の朝食から取り置いたものだということを知っていた。あのとき私に涙をぽろぽろこぼさせたのはパンというものではなかった。それはあのときこの男が私に示した人間らしさだった。人間とはガス室を発明したと同時に、ガス室に入っても毅然として聖書の言葉を口にする存在でもあるのだ・・・・。

(解放されて帰郷してから)

 私は友人のパウル・ポラノクを訪ね、私の両親、兄、そして(妻)テイリーの死を報告した。今でも覚えている。私は突然泣き出して、彼に言った。「パウル(友人:筆者)、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには何か意味があるはずだよね。何かが僕に期待している、何かが僕に求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。・・・・フランクルは完全に打ちのめされた。もはや生きる気力もなくしていました。友人たちはそんなフランクルに病院での仕事とこのアパートを紹介しました。さらにフランクルが本の原稿の作成に打ち込めるようにタイプライターを探し出しました。借用書には「私はこのタイプライターを必要としています。なぜならテユルクハイム収容所で書き始めた本の続きを書きたいからです」・・・・解放から8ヶ月、遂に最初の作品が出版された(〈医師によるメンタルケア〉。フランクルはその中に自らの強制収容所体験を書き加え、かって20代で発想した心理療法ロゴセラピーを発展させた。

V.フランクルのロゴセラピー(2-1)

 NHKこころの時代 宗教・人生「ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある」より。

日本ロゴセラピー協会会長勝田茅生さんと作家小野正嗣さんとの対話から。

V.フランクルのロゴセラピーについては以前のブログでも紹介しました。

 E.フランクル(1905~1997)は、1905年ウィーン生まれ。ウィーン大学在学中より精神医学を学ぶ。フランクルは10代で、G.フロイト(1856-1939)との書簡のやりとりによって精神分析について学び、20代でA.アドラー(1870‐1937)精神科医)に師事。30代で、独自のロゴセラピー(註1)についての構想を持ち、臨床を行っていた。しかしユダヤ人であったためナチスによって強制収容所に収監され、その構想を記した論文も没収された。この体験をもとに著した「夜と霧」は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている(「夜と霧」霜山徳爾訳(初版1956年)/池田香代子 訳(新訳版 2002年 みすず書房)。発行部数は英語版だけでも900万部に及んだ。ちなみに「夜と霧」とは「収容者は夜、霧の中を処刑場へ連れられて行く」の意味です。

 強制収容所に入れられる前にですでにロゴセラピーの理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言っています(「意味による癒し ロゴセラピー入門」山田邦男/監訳)。フランクル自身は極限的な体験を経て生き残った。しかし両親は収容所の中で、妻は収容所を生き延びたが、極端な衰弱により、その後まもなく亡くなった。

 後にウィーン大学病院精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任。度々日本にも訪れ、講演をしている。

註1以前にもお話ししましたように、困難な状況にある人に「生きる目標」を与える心理療法です。たとえば、強制収容所にいた人に「遠くで待っている子供と再会するまで」とか、「あなたが温めている著書を完成するまで」などの生きる希望を見出させる心理療法です。フランクル自身も心理学者としての収容所での体験を、なんとか学問としてまとめたいと、ひそかに手に入れた紙片にキーワードを書き留め、将来の出版の希望としたのです。つまり、これらの人達は、あのきわめて困難な状況に陥った自分を、将来への希望を見付ることで客観的に眺めることができた人達だと言うのです。傾聴すべき体験報告ですね。フランクルは、突然将来への希望を発見したことを「人生観のコペルニクス的転換」と表現しています。

信仰の質の変化(1)

 以前にもお話しましたが、筆者は40歳代から50 歳代にかけて前後二つの神道系教団に属し、もっぱら霊感修行をしていました。そこでは主宰神がどなたかなど、よくわかりませんでした。話題にも上らなかったのです。その後それらの神道系団体をやめ、近所の産土神社の氏子会員となり、毎月の月例祭や大祭に出席しています。そこでは同じ市内の熱田神宮から天照大神の分け御霊を頂いているということでした。

 筆者は60年来、生命科学の研究をしてきました。ある時、筆者のグループが突き止めた酵素タンパク質の遺伝子DNA構造を眺めているとき、突然「生命は神がお造りになった」と直感しました。それ以来、信仰の質が変わっていったのです。つまり、「神とは信じる存在」から、「信じるというより、ただただ感謝する」という形に変わっていったのです。

 今では神のありがたさを思わない日はありません。神はさまざまな生命を造り、それぞれに生きるすべを与えてくださいました。私たち人間に食べ物、衣服、住まいを、そして何よりも高度な知能を授けてくださいました。地球以外に人間のような知的生命がどれほどいるのかはわかりません。いや、筆者は人間が宇宙で唯一の存在だと思っています。なぜなら、地球は人間を作るためのきわめて偶然性の高い条件を持っているからです。たとえば、太陽の大きさが今の10倍もあったら、寿命はわずか2700万年だったと言われています。2倍でも13億年。地球で人間という知的生命体ができるのに35億年かかったことを考えれば、短かすぎます。ちょうどこの大きさであったために、寿命が100億年もあるのです。また、太陽からの距離がプラスマイナス2%違っても人間はできませんでした。さらに、きわめて幸運にもちょうどよい位置に月がありました。月がなければ地球の自転軸がふらつき、気候は著しく不安定になってしまうのです。信じられないほどの偶然が重なった結果、人間ができたのです。こうして進化した人間は今や宇宙の成り立ちや構造まで理解するに至ったのです。人間宇宙論と言いますが、筆者もそう思います。

 物質の究極の構成要素は素粒子です。しかし、それが17種類であること、それぞれが固有の性質を持っていることなど、偶然と言うにはあまりに巧妙です。筆者には神の御業としか思えないのです。

 このように筆者にとって神は絶対真なのです。絶対なるものは信仰する必要などありません。ただただありがたく受け入れるだけです。生命の根元である太陽は、人間が信仰しようとしまいと厳然と存在するのです。その意味で、太陽は信仰という人間の行為の対象ではないのです。「無条件で感謝すべきものだ」と筆者は考えるのです。

 このように近頃は私の信仰の質は変わったと感じています。

どんなに無念でも(1)

 Aさんは筆者が出会った尊敬する人です。地方の中企業の元社長で、筆者と同年という親しさから、ここ10年親しくお付き合いいただいています。もともと国家公務員として将来を約束されたコースを歩いていましたが、30歳代にお父さんが急死し、跡を継ぐことにしたと。統計によりますと、近年起業した会社が続けられるのは平均3~5年とか。それを50年以上維持してきたのですから立派です。お父さんの会社を閉めて、自分は元のエリートコースを進むという選択肢もあったはずですが、そうはできなかったのです。聞くところによりますと、地方の会社を潰してしまうと、もうそこには住んでいられないとか。一定の雇用もありますから、地域の人たちの家族が路頭に迷ってしまうからでしょう。同じ公務員であった筆者には想像もつかなかったことです。

 Aさんから学んだことは多いのですが、その一つをご紹介します。

「他人に騙されたこと、裏切られたことは何度もある」と。誇り高いAさんにはどれほどか無念だったことでしょう!またある時は、代金を中々払ってくれない事業所があった。中小の会社というものは、その年の分はその年内に決算しなければ立ち行かないことは、素人の私でもわかります。その会社へは何度も足を運んでお願いしたそうです。もちろんそのときは腹を立てたり理屈を述べることなどできません。そんなことをしたら次がないでしょう。

 仕事の注文は努力しなければ得られないものです。「注文が得られたときは100%、なかったときは0%。次はどうしよう。眠れない夜が続く・・・・・」。最近、筆者の近所の大きな商店が倒産しました。かなり手広くやっていたことが窺われていましたから、ショックでした。店舗のガラスには「ここにあるすべての商品を移動することを禁じます」という弁護士の張り紙が。驚いてAさんに報告したところ、「事業者はいつも、明日はわが身と思っています」との返事。まことに厳しい世界ですね。筆者は公務員として生活に不安を感じたことはありません。「申し訳けないようなことです」と言いますと「研究者が生活の心配をするようではよい研究はできません」との返事でしたが・・・・。

 Aさんの誠実さは病気の治療にも表れています。専門家の目で見て、油断のならない持病をお持ちなのですが、病院に行くのも薬も飲むのも主治医の指示を忠実に守り、「あなたは優等生です」と言われているとか。そのため、体調はきちんと管理され、お仕事にも支障がないのです。ふつう、こういう長期間自己管理を必要とする病気に掛かると、多くの人が、得てして「めんどうだ」と医師の指示をきちんと守らないことが多いのです。

 いろいろお話を聞くと、いつも「会社はこの人で持っている」と強く感じます。つまり、引退したくてもできないのですね。「余人には任せられない」のです。「会社をもっと大きな会社に吸収合併してもらう」という話も出たようですが、なかなか難しいようです。お会いするたびに「もう義務はとっくに果たしていらっしゃるので、これからは美味しいものを食べ、いろいろなところへ遊びに行ってください」と言っています。しかし、毎月というわけにはいかないようです。お会いした時はいつも「明日は仕事で〇〇へ」という忙しさです。ただ、筆者と同じように、東北地方が好きで、太宰治のふるさとや、花巻の宮沢賢治ゆかりの地、遠野の里に何度も足を運んでいると聞いて、ホッとしています。

 Aさんはいわゆる市井の人です。しかし、市井にもこんなに立派な人がいるのだという事を知りました。日本はバブル以降、「空白の30年」を経験しました。ダメな国になってしまったのです。どんなに政治家・経済家が頑張ろうとも、日本人全体の活力を上げるのは容易ではないでしょう。新興国もどんどん追いかけていますし。今後、一体どうなるのかが気掛かりです。ただ、市井にはA さんのようなりっぱな事業者がいることを知って「まだ日本もやれる」と、ホッとしている日々です。