元統一教会の会員で、さまざまな辛い体験をした「山さん」の告白です。前回のコメントについて筆者が感想を述べました。今回はそれに対する「山さん」の追加のコメントでした。
中野様
こんにちは、ブログの更新を今日拝見しました。この度は図々しくも、ありがとうございます。キリストについては超自然的なもので、なぜか理屈は分からないけれど、憐れみを受け心開かれて信じることになるという体験がありました。それでも、神の恵みによる歩みになるよりも、自分でこうしないとと心の穴を埋めるように努力して、余計に自尊心が傷ついていたと思います。
筆者のコメント:「憐れみを受け心開かれて信じることになるという体験がありました」とは、「初めて神の愛を感じて心が開かれた」という意味でしょうか。もしそうなら貴重な体験をされたと思います。また、「神の恵みによる歩みになるよりも、自分でこうしないとと心の穴を埋めるように努力して、余計に自尊心が傷ついていた」の意味がよくわかりませんが、自己批判がかえって自分を否定することになった」ということでしょうか。それなら「信仰の道とはそういうものです」といいたいのです。
しかし、様々に喪失したときに、恵みによる生かしを人は感じるのではないでしょうか。
筆者のコメント:「順風満帆の人生を歩んでいる」と感じている(誤解ですが)人には宗教は不要でしょう。さまざまな苦しい状況にある人こそ、「それでも生かされている。よいところもある。これは神の恩寵である」と感じることがあるのではないでしょうか。それらは貴重な「気づき」ですね。
俗に言われる悪魔信仰というのは、自分が神になってしまうことだそうです。アダムとイブが神から離れたというのは、そういう心だったのです。
筆者のコメント:悪魔信仰の意味がよくわかりませんが「自分は神である」と過信することでしょうか。山さんご自身がそう考えたことがあるのでしょうか。
自分が何処から生まれてきたのか、どこに行くのか、誰も見たことがありません。そして、各々の宗教が交流してぶつかってきました。いまは、他の宗教について、多元主義によるものも学びましたが、キリストでなくてもいいのではとキリストの存在があやふやになるのだと危惧感もあります。キリスト教が排他的と言われる所以は、唯一の神キリストを礼拝する、一対一の妻と夫を愛する、人のもの、家を欲しがらない姦淫の罪を犯さないという誓約の制約が、排他的と写り、つながるらしいのです。しかし神と家族との誠実な関係を保つことを願われているというわけです。宗教上の人間関係は、ドグマが異なり、いざこざもおきやすいです。
所感を話しまして、不快な内容でしたら申し訳ありません。
ありがとうございます。山
失礼します。
筆者のコメント:さまざまな宗教・宗派が現実としてあるわけですから、人々の取る態度は「多元主義、つまり、それらの共存を認めるか、他宗教を排撃するかでしょう。どちらを取るかは個人の問題ですね。どちらが正しいという事はないでしょう。
ブログに取り上げられた内容で辛い内容が伴いますが、誤解を解くために簡単にコメントをしたいので、失礼します。キリスト教の人にそそのかされたというのは、伝道が騙されたなどの話ではありません。職場やサイトで色んなクリスチャンがハラスメント問題を起したことでした。私達は被害を受けてつらく、現場責任者に訴えました。わたしは子供の頃に宣教師に伝道されましたので、その人たちに、伝道されたわけではありません。
筆者のコメント:事情はよくわかりました。
また、視野を広げて下さいと言われたことに置きましては、カルト異端にいたことを全否定する牧師がいるのでその人たちの元で学ぶうちに、その健全性がカルトなのではとおもいます。認めないと、いろんな価値観と救済人たちが、洗脳を解こうと押し付けてくるのが、辛いことがありました。色んな人がいると思います。
筆者のコメント:おっしゃることはよくわかります。「旧統一教会は悪い」と全否定する人がよくいますが、それでは旧統一教会の教えを支えにしてきた信者たちの人生を全否定することになってしまいます。エホバの証人でも、あのオーム真理教でも同じことですね。こういう問題を扱う人は、安っぽい正義感が信者を苦しめることもあることを心しなければなりません。
尚、聖霊体験を説明するのはわたしには難しいのですが、神に愛されていることを感じ、信じたいと聖霊により心を開かれ、神の救いと愛の賜物を受け入れる、超自然的なことだそうです。
筆者のコメント:長年信仰の道をたどってきた筆者にはよくわかるような気がします。習慣的な信仰と本物の信仰の違いはそこだと思います。あるとき「ハッ」と気付くのです。
信仰は、努力や求めた度合いや、信心や信念ではなく、人格的神との信頼の始まりだと思います。罪を洗いざらい神に告白したから救われるのや、何よりも功徳により認められるということはありません。
筆者のコメント:そのとおりですね。「正しい信仰とは、人格的神との信頼の始まりだ」
はとても良い言葉だと思います。あらためて「神を信じるとはどういうことか」を考えさせられます。
神の前にすべてのものは、等しく愛される存在で神の作品です。罪を犯したアダムとエバの時から原罪があります。キリストの十字架と復活により、罪を贖われている。ペンテコステでイエスが復活して聖霊が、信じるもののなかに内住されると聞きます。キリストが地上に生きているときは、弟子たちや信じる者たちの中に、まだ聖霊は内住していませんでしたそうです。
筆者のコメント:「イエスが復活して聖霊が、信じるもののなかに内住される」の真意は私にはよくわかりませんが、キリスト教神学の奥深いところなのでしょうね。
なぜ悪魔や悪、原罪や罪が生かさているのかは、それらを無くしてまえば、原罪ある人間も無くならなければなりません。神のジレンマです、神が受肉され、キリストが人間の友となり、裁判にかけられ、悪に勝たれ十字架の勝利と復活は、人々を救いに招いてくださいました。救済論は宗派により異なります、ここでは触れません。
ヨハネの黙示録では、霊的存在のサタン悪魔は、救われる対象ではなく、硫黄の中に投げ込まれ終わりの時に、滅亡すると学びました。天国には悪魔サタン、悪や罪はありません。
筆者のコメント: 「なぜ悪魔や悪、原罪や罪が生かさているのかは、それらを無くしてまえば、原罪ある人間も無くならなければなりません。」の部分については私は別の考えを持っています。すなわち、「原罪ある人間は無くならなければならない」のではなく、「神は、人間が自分の原罪に気付き、心の在り方を改めることを見守って下さっている」のではないでしょうか。それが神の慈愛だと思いますが。
また、超自然的なことは、様々な霊感のスピリチュアルな現象ではなく、神様が全てのものを創造し、愛している、救いたいと切に思われている。その御手が各人に届くのは、聖霊が内住されるであり、聖書の御言葉からの愛であります。
筆者のコメント:さまざまな心(神)霊現象は、「正しい信仰への気付き」を促す神のメッセージということでしょうか。
そして、罪や恥に悩む人も、もう神の怒りに怖れるのではなく、神を信頼して心の咎を打ち明け、赦されていると感じる、辛いときも祈れないときも信仰に悩むときも、委ねるようになってくると思います。それ以上でもそれ以下の添加物はなく霊能者や憑依でもありません。
筆者のコメント:正しい信仰とはなにかを改めて考えさせるとても良い言葉ですね。
聖書のヨブは、賢い信仰深い人でしたが、人間は原罪があり、この世はサタンが支配している側面があるので、様々な試みに合われたのだと思います。人からの裁きやサタンや悪魔に怯えるよりも、良き方である神を信頼することに行き着くと思います。この前も冤罪の方が、無事釈放されましたが、小さな罪は皆持っていますが、無実の罪の濡衣を着せられたご当人様方は、ヨブ記の人々のようだと、語られる方もおられます。
わたしは聖書を全て学んでないので、間違いや中核のメッセージから遠いと思います、不足ながら書き込みさせてくださり、申し訳ありません。失礼しました。
筆者のコメント:「心から神を信じれば何も恐れることはない」・・・・この言葉が最近私の心に浮かびました。
神のように生きるのが罪かどうかについて、私なりに考えますと、神の権威、キリストの権威を人間は持つことはありません。人間は神ではないためです。
筆者のコメント:この部分は私にはよく理解できません。
神様の子供の立場を、与えられたことを感謝すると、ある牧師が本でかかれているようです。これは、神様の子供として歩むことを喜ぶということだと思います。創造本然の姿を神との信頼関係交わりの中で気付かされ、与えられた天分を生かしてゆく、健全な自尊心や自愛、他者理解を育むように、導かれるのだと思います。生きているときに、完全でなくても、死後の世界天国では完成した霊的な存在になり、復活を約束されています。神を愛せよ、隣人を愛せよ。十戒を守る、全て完璧に完全な人はいません。神は、善人ではなく、罪人を招かれたとあります。終末論、救済論に置きましては、色んな神学があるようなので、ここではお答えできずすみません。ご了承ください。
事故にあっても、災難にあっても、ハレルヤーと言える方々は、この世の何よりもキリストを尊び、どんな状態でも喜びがあるのだと思います。キリストには変えられません。この世の何ものに(?)も讃美歌がありますように。超越的自我の世界のようです。人は、与えられた天分を果たすことですが、それが目的ではなく、生きる内での喜びであるのではないかと思います。きっと祈れないときも、本や聖書を読めないときも、ゆるしなさいという言葉が諸刃の刃で反発する怒りのときも、愛せないときも、病に悩むときも、どん底でも、運命と諦めず、神様助けてください、早くしてくださいと、子供のように喚ける場所があること。そして、時を待ち、御心に従い、立ち返る自己を挑越した神を信頼できることは、大いなるものに委ねられる安心平安なのではないかと感慨深いものがあるのです。
筆者のコメント:以上、山さんは「正しい信仰とはなにか」について深いところまで考えていらっしゃるように思います。それも旧統一教会を含め、さまざまな宗教を体験されたことよるものでしょう。決して無駄ではなかったですね。