信仰の質の変化(1)

 以前にもお話しましたが、筆者は40歳代から50 歳代にかけて前後二つの神道系教団に属し、もっぱら霊感修行をしていました。そこでは主宰神がどなたかなど、よくわかりませんでした。話題にも上らなかったのです。その後それらの神道系団体をやめ、近所の産土神社の氏子会員となり、毎月の月例祭や大祭に出席しています。そこでは同じ市内の熱田神宮から天照大神の分け御霊を頂いているということでした。

 筆者は60年来、生命科学の研究をしてきました。ある時、筆者のグループが突き止めた酵素タンパク質の遺伝子DNA構造を眺めているとき、突然「生命は神がお造りになった」と直感しました。それ以来、信仰の質が変わっていったのです。つまり、「神とは信じる存在」から、「信じるというより、ただただ感謝する」という形に変わっていったのです。

 今では神のありがたさを思わない日はありません。神はさまざまな生命を造り、それぞれに生きるすべを与えてくださいました。私たち人間に食べ物、衣服、住まいを、そして何よりも高度な知能を授けてくださいました。地球以外に人間のような知的生命がどれほどいるのかはわかりません。いや、筆者は人間が宇宙で唯一の存在だと思っています。なぜなら、地球は人間を作るためのきわめて偶然性の高い条件を持っているからです。たとえば、太陽の大きさが今の10倍もあったら、寿命はわずか2700万年だったと言われています。2倍でも13億年。地球で人間という知的生命体ができるのに35億年かかったことを考えれば、短かすぎます。ちょうどこの大きさであったために、寿命が100億年もあるのです。また、太陽からの距離がプラスマイナス2%違っても人間はできませんでした。さらに、きわめて幸運にもちょうどよい位置に月がありました。月がなければ地球の自転軸がふらつき、気候は著しく不安定になってしまうのです。信じられないほどの偶然が重なった結果、人間ができたのです。こうして進化した人間は今や宇宙の成り立ちや構造まで理解するに至ったのです。人間宇宙論と言いますが、筆者もそう思います。

 物質の究極の構成要素は素粒子です。しかし、それが17種類であること、それぞれが固有の性質を持っていることなど、偶然と言うにはあまりに巧妙です。筆者には神の御業としか思えないのです。

 このように筆者にとって神は絶対真なのです。絶対なるものは信仰する必要などありません。ただただありがたく受け入れるだけです。生命の根元である太陽は、人間が信仰しようとしまいと厳然と存在するのです。その意味で、太陽は信仰という人間の行為の対象ではないのです。「無条件で感謝すべきものだ」と筆者は考えるのです。

 このように近頃は私の信仰の質は変わったと感じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です