読者の方とのやり取り(12)

 柴田さんは熱心な読者のお一人です。誠実なお人柄が伺われ、最近よくコメントのやり取りをしていますが、筆者がかなり思い切ったことを言っても真摯に受け止めて下さいます。そのうちの一つを紹介します。

 筆者は「宮沢賢治の心」を初め、たびたび「法華経は効能書きばかりで中身のない経典だ」とお話しています。柴田さんも以前から法華経の意義には少し疑問を抱いていたそうです。しかし、柴田さんにはとても尊敬していらっしゃる日蓮宗の僧侶がいらっしゃるとか。そのためその根本義である法華経に疑問を持つことにはためらいがあるようで、筆者とのやり取りの文面からそれが感じられます。次は最近の柴田さんからのメールです。

柴田さん:私はその答えが南無妙法蓮華経のこの一言に集約されていると感じます効能ばかりで中身がない法華経に、南無=帰依するということはつまり、それでもあなたは法華経を信じれますか?という裏返しなのだと思います。 

 件のお上人はよくおっしゃいます。
信は智慧の種であると。つまり、南無妙法蓮華経から始まるのだと。そこから芽吹き、花開くのだと。
そのきっかけが信であると。

 今のところはこのくらいしか私にはわかりません・・・・本阿弥光悦や葛飾北斎といった卓越した芸術家もまた日蓮宗・法華経を篤く信仰していたようです。私はできることならその先が知りたいです。彼らは法華経を通して何を感じとったのか?

筆者のコメント:つまり、「まず信じなさい」と言うのですね。筆者の返信は、

・・・・柴田さんがおっしゃる「まず信がある」という考えはとても危険です。カルト教団はどれも「まず信じさせる」を戦術として使っているのが特徴です。良識と知性を以て判断することこそ、すべての人がカルトにハマらないために心掛けることだと思います。北斎や光悦はどうでもいいのです。ご自分の眼で判断してください。私はそうすることによってすべての既存の宗教を判断し、スクラップアンドビルトしたいのです。宗教はすべての人間にとって必要だと思いますから・・・・・。

 ちなみに「宮沢賢治の心」では「賢治は理屈を飛び越し感性を以て法華経や歎異抄の心をつかんだのでしょう」とお話しました。

いかがでしょうか。

2 thoughts on “読者の方とのやり取り(12)”

  1. 信じるを押し出してくる宗教は危険とのことごもっともだと思いました。

    手のひらを返すように感じられると思いますが、私自身は常より般若心経を唱え、曹洞宗のお寺にて坐禅をし、愛読書は正法眼蔵という、日蓮宗徒からするとなんとも不埒な輩なのです。というより日蓮宗徒ではありませんね(笑)

    ただ私は知りたかったのです。
    お上人がなぜ法華経をここまで信仰できるのか?
    そのひたむきに法華経に向き合われる原動力は何なのか?
    その答えが感性だとするのなら、その感性が信じることによる単なる思い込みだとしたら、なんともやるせない気持ちになりました。

    1. おっしゃるとおりですね。
       柴田様がお上人様を尊敬なさるお気持ちは素直に理解できます。法華経の信者が何を理由に「信じて」いらっしゃるのか、私も知りたいのですが・・・・。
      またお考えを聞かせ下さい。

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