立花隆さん「死後の世界」(1‐4)

1)知の巨人と言われた立花隆さんが亡くなりました。東大哲学科の学生のころ「ギリシャ語でプラトンを読み、ラテン語でトマス・アクィナスを読み、ドイツ語でヴィトゲンシュタインを読み、フランス語でサルトルを読み、アラビア語でコーランを読み、ペルシャ語でルーミー(詩人)を読み、漢文で荘子集註を読みという日々だった」そうですから、相当な人ですね。

 立花さんは「脳死」「臨死体験」「がん 生と死の謎に挑む」など、「死とは何か」をさまざまな角度から問い続けてきました。筆者も禅を中心に「人間は、どうしたら死を受け入れられるか」を学んでいますから、立花さんの興味と重なる部分も多かったのです。「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(NHKスペシャル2014)は、何度も視聴しました。ただ、後ほどお話するように、立花さんの考えには受け入れ難い部分もあるのです。そこでこのシリーズでは立花さんの考えに関する筆者の感想を述べます。ちなみに、若者はなぜ死を恐れるのか?その多くは「このまま眠りから覚めなかったらどうしよう」のようです。他愛のない心配ですね。そのままでも1時間と持たずに寝入ってしまうでしょう。

 立花さんは上記のテレビ番組のための取材を通じて「死がそれほどこわくなくなった」理由として、「死ぬというのは、夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで自然に人間は死んでいくことができるんじゃないか」と言っています。立花さんがそう考えるに至った根拠についてもお話します。

 立花さんは改めてお話する必要もないほど真摯な探求者ですから、納得できない人たちに対する批判は激烈です、たとえば、

「最近日本で評判を集めている東大医学部付属病院救急部の矢作直樹氏のような例です。最近彼は週刊誌で、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒師のごとき男と対談して『死後の世界は絶対にある』と意気投合していましたが、これが現代の東大教授かと口あんぐりでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこめないと『死ぬのが怖くない』世界に入れないのかというと、決してそうではありません・・・」(以上「死はこわくない」文芸春秋)。

 筆者も矢作さんや江原さんのお名前は知っています。ただ、著作やテレビ番組を視聴したことはほとんどありません。やはり「?」と感じるところが多いからです。それにしても、「立花さんそこまで言うか?」です。霊的世界を考えることが、非理性的で怪しげかどうか。それについても後ほどお話します。

2)臨死体験というものがあります。事故や病気で死に瀕した人が、意識を取り戻した後に語る不思議な視覚体験です。「まず、体外離脱し、そのまま心はトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界へ移動し、美しい花畑で亡くなった家族や友人に出会ったりして、限りなく愛に満たされた感じがする。そして超越的な存在(神)に出会う・・・」。多くの臨死体験者が共通して口にする物語です。よく言われているのが、「臨死体験こそ、人には肉体の他に霊魂があり、死ぬと肉体から離れて死後の世界に入り、神と出会うことの証拠だ」という解釈です。

 立花さんが、どのような根拠で「死はそれほどこわくなくなった」と考えるようになったか。

 まず、動物(ネズミ)は、心臓が止まっても数十秒間は脳波が消えない」という、ミシガン大学のジモ・ボルジガン博士の研究成果があります。それまでは、心臓が停止すると数秒間で脳波が止まると考えられていたからです。そして、ボルジガン博士によって死の間際にネズミの脳の中でセロトニンという幸福感を感じさせる神経伝達物質が大量に放出されることが明らかにされました。この幸福感が、臨死体験で起こる「愛に満たされた感じ」の原因だと言うのです。

 つぎにケンタッキー大学のケヴィン・ネルソン教授の研究があります。ネルソン教授はさまざまな研究をもとに、脳の奥深くにある大脳周縁系が、死の直前、人間に白日夢のような神秘体験をさせることを突き止めました(註1)。ネルソン教授は、夫人の療養先であるカナダのプリンスエドワード島(赤毛のアンの島)に住んでいます。そこまで訪ねて、行ったのですから立花さんはすごいですね。

註1 筆者の現役時代でしたら、ネルソン博士の原著論文を読んで解析することができたでしょうが、今はそれが困難になりましたので、ここでは立花さんの言葉をそのまま受け入れます。

 これらを総合して立花さんは「臨死体験は、魂があの世に行ったのではなく、脳内の現象であり、人間は、死の間際に幸福感に包まれるような体験をする本能を持っているのではないか」と考えました。

 死後の世界が存在するかどうか・・・ 立花さんは「それは僕にとっては解決済みの議論だ」と言っています。その意味は、「死後の世界が存在するかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言うのです。立花さんが哲学科で学んだことの中で一番大きな影響を受けたヴィトゲンシュタインの言葉「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ(註2)」を引用しています(註2ブッダも「輪廻があるかどうか、わからないことなど考えるな」と言っています)。

3)立花さんは「死後の世界があるかどうかはわからない」と言っています。ここが立花さんと筆者の決定的な差です。霊的体験をしたことのない立花さんとしては正しい判断だと思いますが、その限りにおいてのみ「死後の世界の問題は解決済みだ」は正しいのにすぎません。

 前記の、ケンタッキー大学ネルソン教授は、「臨死体験とは死の間際に脳が起こす『夢』のようなもの」であることを明らかにしたと言います。しかし、「末期の脳腫瘍を患う彼の妻(敬虔なカトリック信者)の信仰を変えたり、壊すものではない」「科学者に言えるのは、どのようにして神秘的な感覚が生じるかだけだ。なぜそのようなことが起きるのかは個々人の信念にゆだねるしかない」と言っています。立花さんは「個々人の情念の世界の問題だ」と言っています。しかし、これは論理のすり替えです。霊的体験をしたことのない立花さんとしては、「わからない」に留めておくのが正しい態度でしょう。「真実は一つ」です。

 筆者がイヤと言うほど霊的体験をしたことは、このブログシリーズで何度もお話しました。「霊」というものが存在することはまちがいない、と生命科学の研究者である筆者が言うのです。ただ、それらが死後の「世界」があることの証拠かどうかはわかりません。

それゆえ、立花さんが言った「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」から、筆者がブレイクスルーしたのは明らかです。筆者の「霊的体験」は、多くの人の霊的体験のように、「科学的に証明できない」とか、「第三者が再現できない」と批判されるでしょう。しかし、個人的体験であろうと事実は事実です。そう思うのが本当の科学的態度です。「しかし、地球は回っている」のです。

 臨死体験については、筆者はわかりません。立花さんが紹介していた脳神経外科医のエベン・アレクサンダー博士(1953-)の著書は筆者も読みました。自分の臨死体験をもとに「死後の世界はある。神と遭遇した」と、各地で講演活動を行い、熱狂的に迎えられた人です(「プルーフ・オブ・ヘヴン―脳神経外科医が見た死後の世界ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。ただ、立花さんが喝破したように、やはりアレクサンダーさんの臨死体験は脳内の出来事のように思われます。

 立花さんが強く批判した元東京大学病院救命救急センターの矢作教授と、江原啓之さんの対談は筆者も読みました。江原さんが多くの霊的体験を持つことはよく知られている通りでしょう。それに対し、矢作さんは、そのような体験は皆無のようです。ただ、命が旦夕に迫った患者の「お迎え現象(註2)をよく見た」に過ぎないようです。立花さんに痛烈に批判されても仕方がないでしょう。

註2死が近づいたころ患者が見る「母がすぐそこに座っていた」というような幻影。

4)意識とは何か

 意識とは「私であることの自覚」です。喜びも悲しみも、そして「バカにされた」と感じるのも意識あってのことでしょう。動物にも部分的にはあるようです。長年「人間の意識をつかさどるのは脳のどの部分か」の追及が行われましたが、結局特定できませんでした。

 ウスコンシン大学ジュリオ・トノーニ教授は、睡眠時と覚醒時の脳の活動の差を調べたところ、眠っている時になくて、起きている時にあった脳の神経活動は、情報と情報をつなぐ「つながり」だったとか。「嬉しい(感情)、まぶしい(感覚)、誕生日(記憶)、食べる(行動)などのつながりであり、これらを線でつないでいくと蜘蛛の巣のようになった。生物が進化していくと複雑性が増す。その複雑性がある限度を越えると意識が生まれる。犬や猫にも意識がある。鳥や昆虫になるとそのレベルが小さくなっていく・・・単細胞にも意識がありうることになる」と言っています(註3この考えは、実験事実から大きく飛躍した「観念」にすぎないと思います:筆者)。

 一方、意識には顕在意識と、神につながる「魂」の意識があるという考えもあります。ふだんは顕在意識が主ですが、「創造的活動をするときに「パッ」とひらめくのは、魂(そして神)とつながったため」だと言うのです。筆者もこの考えですが、立花さんの言う「信念」かもしれませんね。「モーツアルトの音楽は神のメッセージである」とはあの小澤征爾さんの言葉です。

 体外離脱

 立花さんはさらに「体外離脱」は、「魂」が肉体から離れたのではなく、肉体感覚の錯覚であることを、自らを被検者にして体感しています。すなわち、脳に微弱な電流を流すと錯覚を起こしやすくなると言うのです。

 その場面を視聴して筆者は、子供の時の遊びを思い出しました。

 ・・・手のひら同志を合わせて両手の指を組み、くるりと反転させます。別の人が「この指動かしてごらん」と言っても、自分の思いどうりの指を動かすことができない・・・。つまり、意識と肉体感覚が解離してしまうのですね。体外離脱はそれなのかもしれません。

まとめ

 立花さんが詳細な聞き取りによって、「臨死体験は、人間の霊魂が体から離れ、死後の世界を垣間見たとか、大いなる存在(神)に出会ったのではなく、脳の神経活動であること、体外離脱が、意識と肉体感覚が離れてしまったため起こることを立証したのは(正確には、それを明らかにした研究者の成果を紹介したのですが)、すばらしいと思います。それらの研究はさらに重ねなければなりませんが、現時点でも十分に説得力のある科学的証拠になります。立花さんが「科学的・哲学的無宗教だ」というのもよくわかりますね。立花さんは「死後の世界が存在するかどうかは、僕にとっては解決済みの議論だ」と言っています。ここが霊魂が存在することを何度も体感した筆者とは、決定的な違いです。

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