立花さんは脳死と臓器移植について精力的に取材し、「脳死」(中公文庫)を著わしました。さらに、この問題について遠藤周作さんと「生、死、神秘体験」(書籍情報社)で実りの多い対話をしています。ちなみに遠藤さんもかねてこの問題について大きな関心を抱いており、独自の取材をしている人です。
立花さんの意見は次のようにまとめられると思います。
1)脳死と臓器移植はまったく別の問題であり、臓器を取り出すのは暴力的行為である。
2)厚生労働省の脳死基準(脳の機能(脳波)の停止をもって脳死とする)はまちが
いであり、脳細胞の死(脳血流の停止)を判断基準に入れるべきである。
3)倫理的判断基準を入れるべきである。
筆者のコメント:まず、臓器移植を支持する医師たち(および提供者の遺族)と、反対する医師たち(および受け取る側の患者の家族)に分かれることを念頭に入れなければなりません。受け取る側の医師は提供者(ドナー)の脳死の判定からできるだけ早く臓器を取り出したいと思い、ドナー側は確実な脳死の判定があってから提供したいと思うのは当然でしょう。ここに両者の意識のギャップがあるのです。
まず、立花さんの言う
1)「脳死と臓器移植は別の問題」ではありません。なぜなら、臓器移植とリンクしているからこそ、脳死問題が発生するからです。そうでなければ、それはたんに患者と家族の問題にすぎないからです。
2)については、じつは脳の機能(脳波)の停止と脳細胞の死(血流の停止)は、わずか数十秒の差しかないのです。つまり、2)は問題にはならないのです。
3)について、立花さんが遠藤さん(敬虔な信徒)に「キリスト教ではどうですか」と期待を込めて聞いたところ、「それは中世まででしょう。仮に基準を作ってもケースバイケースでしょう」と、きわめて柔軟な考えを示しました。
決定的なのは、遠藤さんが逆に立花さんに「自分が臓器を受け取る状況になったらどうしますか」と尋ねたところ、
立花さん「今ただちにどうであるかと言われれば、どっちかというと貰わない方だと思うんです。ただ、現実にそういうシチュエーションに立たされて、本当に臓器提供者が目の前に現れたら、はたしてその通りに行けるかどうか、もう一つ自信が無いですね」と答えています。
それはないでしょう。「臓器を取り出すことは暴力的だ」と言いながら、「受け取るかもしれない」とは!ちなみに遠藤さんは「僕はもう歳だから(註1)臓器はいらない。ただし、子供がそうなった場合は、そうなってみないとわからない」と言っています。やはり柔軟ですね。
立花さんは終始「基準が必要である」と言っており、遠藤さんは基本的にはその考えを支持しつつも「ケースバイケース」と答えています。その通りでしょう。お二人のやり取りを読んでいて、立花さんは遠藤さんに翻弄されていると感じました。
註1 会談の当時、遠藤さんは70歳、立花さんは54歳。