筆者がここで話題にしているのは、いま流行のマインドフル瞑想(註1)のことではありません。禅寺で行われている「悟りを目指す瞑想」のことです。もちろん筆者は医学的治療法としてのマインドフル瞑想の効果を否定するものではありません。しかし、マインドフル瞑想が1日10分くらい実施するのに対し、禅寺では少なくとも1日2回、各40-50分行われます。以前ご紹介した兵庫県の安泰寺では、年間1800時間瞑想が行われているとか・・・とうてい同じ目的とは思えませんね。
ところが、「悟りに至る瞑想」の意義はなにかと言いますと、とたんにぼんやりしてしまうのです。意義は当然「やり方」と関連します。
たとえば日本仏教会HPでは、「自分自身と向き合い、悟りを得る手法であること」と言っています。
一方、Wikipediaでは、「心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことなどとされている。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている」とあります。
ネット「舞の道」では、
・・・自身と向き合い、今の自身の心がどう感じているかをありのまま受け止めながら、徐々に心が無になる状態を目指して行うトレーニング ・・・
NHK「心の時代・瞑想でたどる仏教」で箕輪顕量さん(日蓮宗僧侶、東京大学教授)は「心と身体を観察する。それによってブッダが悟りを開いた」と言っています。
筆者のコメント:ここで挙げたどれを読んでも、何のために瞑想するのかがわかりません。意義と方法がごっちゃになっています。道元のいった只管打座(ただ座るだけ)という言葉は、「なるほど」と、一見説得力がありそうですが、意義がわからなければ、座り方すらわかりませんね。
註1マインドフル瞑想についてはネットにいくらでも出ていますのでお調べください。