中村元先生については何度もお話してきました。元・東京大学文学部梵文学科教授で、わが国の仏教研究の第一人者だと思います。サンスクリット語から、チベット語、漢文の素養も高い、碩学という言葉がぴったりの人です。その中村先生が「般若心経」について語っていらっしゃる生の言葉が残っています(註1)。「般若心経」は、禅の根本経典とされ、「空」思想をもっとも端的に表す経典と考えられています。
中村先生の「般若心経」についての講演では、まず、「五蘊とはわれわれの身体を構成している5つの要素だ」とされています。そして、肝心の色即是空・空即是色については、
色即是空:われわれの体は固定的な物ではなく、実体はない(色はすなわちこれ空である)。
空即是色:しかし、われわれの体は虚無ではない。現実に展開するもの、物質的な形に他ならない。内になにもない。なにもないから展開することができる。ちなみに、中村先生の受・想・行・識についての解釈は、
受:感受作用
想:心に思う表象作用
行:われわれを内から作り出す作用(太字は筆者)
識:識別作用
そして「空思想」を「人間のあり方」に結びつけて、
・・・執着や煩悩の本体は「空」である。だから修行によって無くすることができる。この理を体得することが悟りである。つまり、自分に気づくことである・・・
と言っていらっしゃいます(註2)。
筆者のコメント:筆者の解釈は中村先生とはまったく異なります。すでにお話したように(註3)、まず、五蘊の解釈から違います。筆者は、五蘊とは「人間のモノゴトの観かただ」と思います。すなわち、
色蘊 – 人間の認識作用の対象(たとえばバラ)。
受蘊 - (バラを)見る(聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚)などの感覚。
想蘊 - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識。
行蘊 - 「バラを取りたい」という気持ち。
識蘊 – 「きれいなバラだ」との認識。
と解釈しています。そうでなければ色に続いて受・想・行・識が来る理由がわかりません。しかも、上記のように中村先生の受・想・行・識の解釈は統一的ではありません(とくに行について)。さらに重要なことは、色即是空・空即是色の解釈の違いです。中村先生の上記の解釈は、たんに「空」を「無常」の概念に則っとったに過ぎず、禅の深い意味は感じられません。筆者の色即是空・空即是色の解釈については、すでに何度も当ブログシリーズでお話しました。
註1You tube https://www.youtube.com/watch?v=Esn7QvTlSpw「中村元– 般若心経・金剛般若経の解説」
註2 鈴木大拙博士の「般若心経」解釈についても、すでにお話しました(中野禅塾だより2015/12/1)
註3 ブログ中野禅塾だより(2015/11/15)