悟りのその時

         中野禅塾だより (2015/11/25)

悟りのその時

 悟りは古今を問わず修行者の究極の目標でしょう。「パッ」と悟るものか、徐々に悟るものかは、宗派によって考えが違います。「パッ」と悟ることは禅を学ぶ者の理想で、「公案集」には「香厳撃竹(香厳という僧が庭を掃いていて、箒の先から飛んだ石が、そばの竹に当たってカチンと音がした瞬間に悟った)」とか、谷川の水の響きを聞いて悟った(註1)など、いくつかの感動的な例が出てきます。禅では悟ってもいないのに「悟った」というのを「生(なま)悟り」と言って、厳しく戒めています。では、悟りは単なる個人の思い込みかというとそうでもありません。

 空海が修行時代、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で悟ったエピソードはよく知られていますね。空海はそれまでに「虚空蔵求聞持法」という短いお経(というより呪文:ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ)を100万遍唱える修行をしていました。そして突然天空から明星が口に飛び込み悟りを得たと言います。日蓮もこの修法をしたと伝わっています。
 
 じつは今でも高野山のごく一部の修行僧がこの修法をしています。特別なお堂に入って、1日1万回なら100日間、2万回なら50日間唱えるのです。軽い木の数珠をまさぐりながら数えるのですが、2万回も数えると15時間以上もかかり、数珠は石のように重くなるとのことです。そして結願のころ奇跡が起こるとか。起こらなければ諦めるか、また一からやり直すという厳しいものです。神秘現象の内容がどういうものかは口外されませんが、それを見た人はお札を奉納することになっています。しかしその数は多くないようです。
 
 つまり、「悟り」は決して単なる思い込みだけでなく、その瞬間には、はっきりとした兆候があるといことですね。筆者もそう思います。
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註1 中国宋時代の詩人蘇東坡が師匠の常総禅師から与えられた公案「無常説法(山川草木など情のないものの説法の声を聞け)を必死に考えて旅をしているとき、渓流のごうごうと流れる音を聞いて突然悟ったという有名な故事。道元の「正法眼蔵」にも「渓声山色巻」があります。

  蘇東坡の詩「渓声山色」

    渓声便是広長舌 谷川の音は如来の無限のご説法である
    山色豈非清浄身 山の姿がそのまま清浄なる仏の姿であり、
    夜来八万四千偈 如来の無限のご説法を聞居ていることと同じだ 
    他日如何人挙似 この感激を人にどう伝えたらいいのか

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