カジワラフミヒコさんから次のようなコメントをいただきました(筆者のブログ「浄土の教えの誤解-正法眼蔵「生死」2018・10・5を読んでの感想でしょう)
カジワラさん:・・・全くスバラシイと有難く拝読しました。有り難うございました。南無阿弥陀仏と申さずにはおれません。私は浄土真宗の門徒で寺の総代を仰せつかっていますが、「往生浄土」と「実践」の統一で悩んでいます。このプログはこの統一問題に大きなヒントになりそうです。道元様 スゴイ。高校時代、座禅を指導して下さった恩師に出遇ました。そのお陰でこの文章がほぼ理解できます。恩師に感謝。中野様に感謝。
筆者のコメント:喜んでいただいてよかったです。筆者の上記のブログは、「浄土の教えの根本経典である浄土三部経には、じつは中身が何もない。歎異抄は、親鸞の教えを自分勝手に解釈している不肖の弟子たちを嘆くという内容に過ぎず、重要な教えなどではない」という趣旨でした。ここでカジワラ様が〈「往生浄土」と「実践」の統一〉とおっしゃっているのは、「教えがはっきりとはわからないない浄土の〈教え〉を実践することなどできない」という悩みでしょう。中身が何もないものに依拠して実践することなどできるはずがありませんね。「日本仏教の退勢は浄土真宗や浄土宗から始まる」とも書きましたが、カジワラさんのような方がいればまだ捨てたものでもないようです。
筆者がこのブログを書いたころ、筆者の友人がすごい剣幕で(古い友人です。仏教の勉強もしている)筆者を批判しました。筆者がブログで「『この人は浄土の教えを誤解しています』と書いたのを読んで」と言うのです。そこで筆者は、「ある有名な、浄土の教えを信奉する人が『無量寿経は宝の山だ』と言っているのを聞いて、唖然とした」と書きました。この筆者の友人はそこを批判したのです。ようやく今ではカジワラさんのような理解者が現れたのです。それらの体験には昔日の感があります。