読者のコメント-ついにこういう人が現れました(17-4‐1~2)

 時永様からさらにコメントをいただきました。私にとりましても貴重な学びとなります。要旨と私の回答は以下の通りです。他の読者の方も参考になさってください。まず、筆者は大竹晋さんの「悟り体験を読む」についてはすでにブログに書きました。

 1)時永さんのコメント(1):”空”という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか。確かに教行一如であれば、二つの側面から挟み込むように、相乗効果がありそうな気がします。現在は空の観方を生活のシーンごとに体感するとはどんな心境なのか、私にはわかりません。塾長は、モノゴトを認識する最初の部分、価値判断が出てくる前、と仰っていますが、それは時間的なものなのか、心的態度によるのか、自分も思索しなくてはいけないと考えています。『愛の反対は憎しみではなく、価値判断を下すこと』と言いますが、逆に言えば価値判断を下さないのが愛であり、神の観方なのかもしれません。

筆者のコメント:「空という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか」について:まず、座禅は見性(筆者の言う「本当の我」と疎通すること)への道です。そして「本当の我」は「空(くう)」のモノゴトの観かたをします。そういう意味で座禅は「空」のモノゴトの観かたができるようになるための修行です。ただ、前回もお話しましたように、座禅はとても難しいのです。そこで別の方法も取ります。それがまず頭で理解し、それを「生活のシーンごとに体感するのです。「空の観方を生活のシーンごとに体感する」とは、次のやり方です。私たちは、何かモノゴトを見たり聞いたりしたとき、いつもすぐに「あれは〇〇だ」と判断してしまいます。その習慣を断ち切るのです。たとえば富士山を見れば誰でも「きれいだ」と判断しますが、判断しそうになった時「富士山」と言って、次の判断へ続くのを止めるのです。つまり「時間的なもの」です。世の中には、良い仕事(学校)とか、つまらない仕事(学校)、美味しいとか不味い、高いとか安い、きれいとか汚い、多いとか少ない・・・という判断が多すぎ、それらが結局、私たちを苦しめることになります。私たちの苦しみはすべてそういう「誤った価値の判断」に由来しています。しばらく、何かを見たり聞いたりしたとき、判断へ続くのを止める訓練をしてください。じつは「価値の判断の否定」は禅の要諦の一つなのです。時永さんの「価値判断を下さないのが愛であり、神の観方」は良い表現です。

 2)時永さんのコメント(3):まるで見当違いかもしれませんが、上記の問題は自分の中ではいつくかの公案と重なるように感じられます。昨年私は「山岡鉄舟先生正伝」を読む機会があり、その中に、山岡の禅の弟子となった初代三遊亭圓朝が、趙州無字の公案を与えられ、半ば山岡に監禁されるようにして座禅し一週間の後に透過したエピソードが載っており、それを読んで以降、この「無!」というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは、と考えるようになりました。塾長はこの無についてある時アッとわかったと述べておられましたが、無門禅師によれば、わかると驚天動地どころではないものだそうで、是非自分も体験したいものです。ここの辺りが深遠な悟りの世界の最初のステージなのかなと想像しています。

筆者のコメント:「この『無!』というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは」について:おっしゃる通りと思います。

この「無」とは、無門が言うように、もちろん有無の「無」でも虚無の「無」でもありません。

時永さんのコメント(4):・・・前回、私が大竹晋さんの「悟り体験を読む」を読んで”空”とは何かを考えるようになったと述べましたが、この本はさすがに見性体験を持った方の言葉を集めているだけあって、空の観方においても、いろいろ示唆に富むものです。そして見性体験自体にフレームを設けて分析を試み、さらには見性者の方々の超常的な体験についても紙面を割いており、評価は様々だと思いますが、なかなか意欲的な試みであると私は受け止めました。そもそも、私は武道を少し稽古しているのですが、達人には世界はどう見えているのか、その不思議な洞察力はどこから来るのかに興味があったので、それと同様の位置付けとして見性者の体現する不思議な面にも興味があります。やはり悟りといった段階に達すると、ヒントをくださったように、何らかの不思議が身の回りにおこるものなのでしょうか。とても興味深いですね。

筆者のコメント:大竹さんの「悟り体験を読む」は良い本ですね。それについては以前のブログに書きました。ただし、私の「ふしぎ体験」は大竹さんの言う5つの分類のどれにも当てはまらないようです。ただし、「体験」は強烈です。「ふしぎなこと」が起こらなければ「悟り」のとば口にも立っていないと思います。

 以上、時永様も倦まずたゆまず学び、実践してください。それが正道です。やがて「父母未生以前のこと」や「庭前柏樹子」「拈華微笑」などの公案の意味もすべてわかるようになるでしょう。

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