本物の信仰-浅原才一と庄松

 以前のブログで「浄土系宗派の僧侶ですら法然の思想を理解していない」とお話しました。筆者は、心の底から法然の教えを理解したのは、清原満之と暁烏敏(あけがらすはや)に加えて、浅原才市と庄松だったと思います。この二人は純朴そのもので、法然の教えを心の底から受け入れました。浅原才市(1850-1932)については以前のブログ(2016/7/4)で紹介しました。石見の下駄職人で、幕末から昭和7年の死まで、阿弥陀如来を心から信じて生きた人です。生業の下駄造りで出たカンナの削りくずに、すなおな信仰の気持ちを書き続けました。その内容は素朴ですが、心に響きます。

 
    ええな せかいこくう(世界虚空)が

    みなほとけ(仏)

    わしもその中 なむあみだぶつ 
    ねるも仏
    おきるも仏
    さめるも仏
    さめてうやまう なむあみだぶつ
    むねに六字のこゑがする
    おやのよびごえ
    慈悲のさいそく
    なむあみだぶつ

    目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 
    南無阿弥陀仏と 声でしられる
    死ぬるは浮世のきまりなり
    死なぬは浄土のきまりなり     
    これが楽しみ 南無阿弥陀仏
    世界をおがむ 南無阿弥陀仏  
    世界がほとけ 南無阿弥陀仏   

 庄松:江戸時代の終わりころ、讃岐に庄松(1800-1872)という熱心な浄土真宗の信者がいました。文字も読めず、数も数えられなかったと言います。貧困そのものの人生で、縄ないや草履作りをしていたが、その合間にも子守りや寺男をして暮らしました。その人となりは 「庄松ありのままの記」(永田文昌堂、顕道書院など)に記録されています。無学な人でしたが、よほど確かな信仰を持った人のようで、ある人が「阿弥陀さんが人を救うと言うが、果たして阿弥陀さんにすくわれるかどうか」と聞くと、庄松の言うには、「お前はまだ阿弥陀さんに救われていないな」と答えたとか。「庄松ありのままの記」は、ネットでも読め、You tubeでも視聴できます(wwwb.pikara.ne.jp/h-kimm/syouma1.html)。その一節に、

・・・・庄松、平常つねに縄をない、或は草履を造り抔など致し居て、ふと、御慈悲の事を思い出すと所作を擲(な)げうち、座上に飛び上がり立ちながら、仏壇の御障子をおし開き、御本尊に向ひて曰く、「ばーあ ばーあ」。これは大慈大悲の御尊容、御なつかしく思ひ立つなり。所詮いわゆる親は子供の寝顔に見とれ、問わず物語の体にて独言ひりごとに喜ばれたるの体なり・・・・
:庄松は普段には縄をなったり、あるいは草履を作るなどしており、ふっと、阿弥陀さんのお慈悲を思い出すと、仕事を投げ出して仏壇に駆け寄り、お障子をおし開いて、阿弥陀さんに向かって、「バァーバ、バァーバ」(註2)と言った。という話である。
註2 讃岐地方では、大人が子供をあやすしぐさに「バァーバ、バァーバ」と言う。両手で顔を隠しておき、しばらくして後、手を開いて顔を見せる。そのときに発することばが「バァーバ、バァーバ」です。幼児は安心して声をあげて喜ぶ。親子の信頼感は「ばーあ」でひとしお深まる・・・・。

2 thoughts on “本物の信仰-浅原才一と庄松”

  1. 文中で「庄松は字の読み書きができなかった」とありますが、そうなると寺で説法や講話を熱心に聴いて浄土真宗の理念を理解したことになりますか?
    庄松はいまでも讃岐地域の浄土真宗の門徒の間では著名な人物ですか?

    1. えびすこさま
       庄松の銅像が立っています。当時の田舎の人には文字の読み書きができる人は少なかったはずです。
      たとえ文字の読み書きができなくても説法はよく理解できたと思います。

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