特別な悟りなどない-澤木興道師

 澤木興道師(1880‐1965・曹洞宗)は、自分の寺を持たず、清貧を旨とし、「本来の仏の心に戻れ」と説き続け、昭和時代とても人気の高かった人です。もと駒澤大学教授。内山興正師、西嶋和夫師、村上光照師など、多くの人に影響を与えました。西嶋師や村上師などは、澤木師の影響で人生の方向を変え、出家したほどです。

 その澤木師は「特別な悟りなどない」と言っています。すなわち、「悟らうとも思はずに、唯(ただ)座るところに道は現れてゐる。悟りは輝いてゐるわけである。唯座るところに悟りは裏付けになってゐるのである(「座禅の仕方と心得 附行鉢の仕方」代々木書院)。つまり、「特別な悟りなどない。座禅によってわざわざ悟りを求めなくても、座禅した瞬間にもはや悟りはある」といっているのですね。

 筆者は澤木師の著作をいくつも読みましたが、よく理解できませんでした。たとえば、以前のブログにも書きました(2016/4/6)。一部を再録しますと、

 ・・・澤木師は著書「正法眼蔵講話‐谿声山色」(大法輪閣)で、道元の「正法眼蔵・谿声山色巻」の一節、「恁麼時の而今(いんもじのにこん)は、我も不知なり、誰も不職なり汝も不期(ふご)なり、仏眼(ぶつげん)も覰不見(しょふけん)なり。人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)せんや」を、

・・・眼が開けさえすれば、別に何もことさらに知ることは要らない。それは別に勉強して、書物で調べるということでもなければ、聞いて知ったんでもない。つまり現なまの全体をいずれにも曲げられないで見ることである・・・

と解釈しています。また、「山色の清浄身にあらざらん、いかでか恁麼ならん」を、

・・・山色が清浄身であり、渓声が広長舌であるから、桃の花を見てかくのごとく道を明らめ得られるのである(註2)。「恁麼」というのはかような道理と言うことであって・・・

と解説しています。しかし、これらはおよそ的外れの解釈です。明らかに澤木師は「恁麼」や、「而今」の意味をわかっていないのです。これらは禅を理解する上でのキーワードです。「恁麼時の而今」の正しい意味は、 

 ・・・・「空」すなわち、「一瞬の体験」にあっては、「○○である」と判断することなどできず、「恁麼すなわち、なにかあるもの(を体験した)」としか言いようがない・・・・

です。

 筆者の上記のブログではさらに詳細に理由を述べていますが、要するに澤木師は「正法眼蔵」、つまり禅が分かっていないと思います。わかっていない人がどうして「特別な悟りなどない」と言えるのでしょうか。

 ちなみに、筆者には村上光照師は特別な人でした。しかし、澤木師の弟子、内山興正師、西嶋和夫師、松原泰道師の著作も読みましたが、澤木師の著作と同様、内容はピンと来ませんでした。

2 thoughts on “特別な悟りなどない-澤木興道師”

  1. 「悟りを開いて解脱をすると、あらゆることができるようになれる」という概念が一般人にありますが、本来の仏教の概念とは違います。ただ、もしかしたらごく一時期の古い時代(日本の古代か中世?)には、「仏教界の常識」として一部の仏教関係者には浸透していた可能性もあります。どこから上記の概念ができたのか何か該当する説はありますか?

    1. えびすこ様
       「悟りを開いて解脱すると、あらゆることができる」についての文献は知りません。悟りは創造的な仕事に不可欠だと思います。この問題は、私のブログ全体を通してお話しています。どうか読者の時永様と同じように、幅広くお読みください。

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