中野禅塾だより(2015/12/1)
殺して見たかったから殺した(1)(今回だけは筆者のカンと想像によるものですから、それを前提にしてお読みください。)
最近「ただ殺して見たかったから殺した」との不可解な犯罪が目立つようになりました。恨みからでも金銭がらみでもない異常さには、多くの人が重苦しい気持ちになったと思います。とくに印象深かったのは、昨年の名古屋大学女子学生のケースではないでしょうか。キリスト教に誘ってくれた老婦人を殺してバスタブに隠し、何食わぬ顔をして故郷へ帰っていた事件です。理学部の学生でした(筆者の勤めていた大学ですからショックも大きかったのです)。
警察はすぐに彼女を容疑者と特定して実家から呼び寄せました。心配して名古屋まで付いて来た母親を無理にホテルに泊め、自分は1週間前に殺した女性の遺骸のあるアパートで一晩寝たというのですから、聞いただけで鳥肌が立ちますね。
もちろんマスコミも大々的に取り上げ、社会・教育心理学者のコメントも多く紹介されました。警察が立件する前に精神鑑定をしたのも当然でしょう。しかし今日お話するのはそこなのです。心理学者たちが「家庭の教育に問題がある」と言っているのはおよそ的外れだと筆者は思うのです。それは単なるきっかけに過ぎないと考えます。
彼女にはいわゆる邪霊が付いているに違いありません。邪霊と言ってもその正体が何であるかは筆者にはわかりません。筆者が10年以上神道系の教団に属していた経験から言っているのです。ぜひ優れた霊能者見てもらうべきです。そうしなければ何一つ問題は解決しないと思います。まずその霊能者はその邪霊の正体を突き止めるでしょう。そして、除霊をするはずです。
筆者はこれらの事件そのものを言っているのではありません。こういう異常な事件が続いて起こるという、その霊的側面を問題にしているのです。読者は「突飛なことを言う」と思うでしょう。しかし長年神霊世界を垣間見てきた筆者のカンなのです。なにか人間の住むこの世界と神霊的世界との関係がおかしくなって来ているのではないかという気がするのです。すぐれた霊能者たちもきっとそう感じていると思います。
まず動物は「殺して見たいから殺す」ということは絶対にありません。人間には戦いや恨み、金銭がらみで人を殺して来た長い歴史はあります。しかし「ただ殺して見たかったから殺した」ということはありませんでした。それが今次々に起こっているのです。今後精神世界が重要視される時代になることは、多くの心ある人が指摘しています。それとの関連でこのお話をしました。