自利か利他か1,2)

 自未得度先度他
 意味:自分は彼岸にいかなくても他の人をまず彼岸に渡してあげなさい

1)大乗仏教の基本的な考え方ですね。そもそも大乗仏教が起こったのは、それまでの部派仏教の修行者たちが、あまりにも自分たちの悟り(自利)に一所懸命だったことへの反発からだったのですから当然でしょう。自未得度先度他(他利)は、もとは涅槃経にある言葉ですが、無量寿経の精神も全く同じです。いずれも代表的な大乗経典で、有名な弥陀の四十八願がそれです。たとえばその第十八願は、

・・・わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません(以下略)・・・・です。

 道元も「正法眼蔵・発菩提心巻」でも取り上げています。その第三節で、

・・・・発心とは、はじめて自未得度先度侘(他)の心を起こすなり。これを初発菩提心と言ふ。この心を起すより後、さらにそこばくの諸仏に逢ひ奉まつり、供養し奉まつるに、見仏聞法し、さらに菩提心を起業す、雪上加霜なり。衆生を利益すと言うは、衆生をして自未得度先度侘の心を起こさしむるなり。自未得度先度侘(他)の心を起せる力によりて、われ仏にならんと思ふべからず。たとひ仏になるべき功徳熟して、円満すべしと言ふとも、なほ廻らして衆生の成仏得道に回向するなり。この心われにあらず、侘(他)にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海を掻けばたちまち甘露となる。

筆者簡訳:発心(菩提心を起こす)とは、初めて自未得度先度他(自らが悟りの彼岸へ渡る前に、先ず他を渡す)の心を起こすことだ。この心を起こしてから、さらに多くの仏たちにお会いしておもてなしし、法を聞いて利他の心を堅固にするのだ。(しかし)他人を先に彼岸へ渡すことを、自分が仏になる手段としてはいけない。たとえもう少しで仏になれるところまで行ったとしても、なお他人を助けるべきだ。こういう尊い心は自分のものでも他人のものでもない・・・・。

筆者のコメント:筆者はこの文章を初めて読んだとき、道元の思想とはあまりにもかけ離れていることに驚きました。上記のように、道元ははっきりと「自利より利他を優先すべきだ」と言っているのですから。私たちがイメージする道元の修行に対する心構えは、「出家をして修行に専心しなければならない」と言うほど厳しいものだったはずです。あの冬の寒さには格別なものがある、福井県永平寺を修行の場としたのもその姿勢からでしょう。つまり、まず自分が悟ることを第一にしてきた(自利)はずです。それがここでは一転して、「自分よりまず他人を(利他)」と言うのですから。この問題は多くの曹洞宗の仏教家も悩ませたようで、現代の曹洞宗派の内部でも、激しい論争がありました。袴田憲昭、角田泰隆、石井清純、星俊道さんなどによるもので、概要は、「道元禅師における『自未得度先度他』について」 印度仏教学研究第48巻1号p107(平成11年12月)に書かれています。「道元の思想が変わったかどうか」に関わる重要な問題だからでしょう。

2)

 じつは自利を優先するか、その前に利他をすべきかは、大乗仏教が始まった当初からの課題でした。上記のように、大乗仏教は、それまでの部派仏教徒が、あまりにも自分が悟ることを目指していることへの反発から起こりました。しかし、「自分が悟っていないのに他人を悟らせることができるか」という原理的な問題があるのは当然です。そこで、「自利と利他のバランスを取る」という折衷案も生まれたのです。初期大乗経典類の般若経典類の一つ「八千顛(はっせんじゅ)般若経」がそれです。

 こういう歴史があったので、道元がこの問題を取り上げたのはむしろ当然でしょう。前記のように道元は「あくまでも利他は重要だ」としています。しかし、筆者には道元の言葉とは思えません。なによりも道元の宗派は一切、衆生済度の活動などしていませんから(鎌倉幕府の北条氏に招かれて講演したのは、とても衆生済度とは言えないでしょう)。真意は別にあると思います。

 それにしても、駒沢大学の人たちはもちろん、それ以前の、インドの大乗仏教の研究者たちは、この問題をあくまでも過去の経典類を基に解決しようとしました。じつはそれこそが大問題なのです。ちなみにこれら大乗経典類にはどれにも「釈尊がこう言われた」とありますが、もちろんその後にインドの哲学者の創作です。つまり、こういう問題は、頭で考えてはいけないことなのです。

 筆者はもちろん自未得度先度他を知っていました。しかし、最近この言葉の本当の意味がわかったようです。先日、急な予定が入り、いつもの40~50分間の座禅・瞑想の時間に食い込みそうになったのです。その後のボランテイア活動もしなければなりません。「座禅の時間を減らそうか」と考えた時、「パッ」と「座禅もボランテイア活動も同じ修行だ」という考えが浮かんだのです。筆者が、これまでの仏教研究者とは異なり、実際の修行を通して得たことが重要だと思います。道元も実体験から導き出したのだと思います。いかがでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です