禅は宗教か?(1, 2)

禅は宗教か(1)

 確かに禅僧はお坊さんで、僧衣を着てお経をあげています。以前のブログ「科学と宗教」でもお話しましたが、もちろん禅宗は仏教の一宗派です。あの曹洞宗永平寺にも本尊があり、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来です。釈迦は説明の必要はありませんね。阿弥陀如来は無量寿仏、すなわち「無限の寿命をもつもの」の意味で、西方にある極楽浄土を治める仏(東方は薬師如来)ですから、全宇宙を主宰する毘盧遮那仏(大仏)の一つ下の階級の仏のようです。弥勒仏は釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏とされていますが、大乗仏教では菩薩のお一人(如来の下)と言われています。つまり、道元は禅の延長上に神を見据えていたのでしょう。
 しかし、それらの衣をすべて剥ぎ取れば、禅は哲学、すなわち東洋独特のモノゴトの観かたなのです。道元やその師、中国の如浄が寺に住み、僧衣を着ていたのは、当時哲学を学ぶには寺しかなかったからです。現代においても西嶋和夫師のように社会で活躍していた人が禅を学ぶため得度して寺に入った例もあります。その一方で、寺という組織に限界を感じ、飛び出した人たちもいます。あの良寛さんがそうですし、以前お話したベトナム出身の禅僧テイクナット・ハン師、わが国では村上光照師がそうです(村上師のことはいずれお話します)。 

 前回、「禅は世界を救う」とお話しました。「禅は仏教だからキリスト教やイスラム教とはまったく相容れないのではないか」との疑問もあるかもしれません。しかし、それはまったくの危惧です。禅は哲学、すなわち東洋独特のモノゴトの観かただからです。他の宗教と相容れないところは一つもありません。そして僧衣などを身に着ける必要も、お寺に入る必要もないのです。ちなみに禅寺で読誦されているのはお経ではありません。「なむからたんのーとらやーやー・・・」は教えではなく、呪文(陀羅尼)なのです。何よりの証拠は、他のお経のように漢語や日本語ではなく、インドの古代語であるサンスクリット語をそのまま詠唱していることです(それについてはいずれお話します)。

 たしかに禅とキリスト教やイスラム教との違いはあります。しかし、その違いにこだわり、目くじらを立てなければなんら矛盾はありません。それどころか、さまざまな宗教・宗派間の対立は、すべて自分たちの宗教・宗派に対するこだわりが原因です。キリスト教とイスラム教との間、はなはだしい場合には同じイスラム教でもシーア派とスンニ派のような、単なる宗派の違いで憎み合い、殺し合って来たのは神の心を正しく理解していない人たちであり、神の意志に反する行為なのです。信仰とは神の心を知り、救いを求めることにあるのは言うまでもありません。
 キリスト教やイスラム教と禅との根本的な違いについては次回お話します。しかし、それはなんら対立を生むものではないことに改めて念を押しておきます。

禅は宗教か(2)禅は宗教ではない(2)
 
 前回、「禅とキリスト教やイスラム教との間には決定的な違いがある」とお話しました。キリスト教やイスラム教では神は絶対であり、およそ人間とは次元の違う存在とみなすからです。「絶対なる神をひたすら尊び、その御心に反しないような生活を送る」これがこれらの宗徒の理想ですね(註1)。ここで、「じゃあイエスキリストは神なのか人間なのか」という疑問が当然出てくるでしょう。この世で生きていらっしゃたのですから。その疑問に対し、筆者が大学教養部の頃、熱心なクリスチャンであったドイツ語教師が「キリストは、ちょうど円と接線のように、神が人間界に接触した唯一の例である」と話してくれました。「なるほど」と、当時は思いましたが、現在では「うまい矛盾の解決法だな」と思えます。屁理屈と言ったら言い過ぎでしょうか。

 一方、禅では「悟りによって神と一体化すること」を究極の目標とします。つまり、神と人間とは隔絶した間柄ではないのです。一方、「いや、今、禅は宗教ではないと言ったじゃないか」と言う人がいるかもしれません。もっともな疑問ですが、まあ聞いて下さい。じつは「禅の目的は悟りによって神と一体化すること」は筆者独自の見解なのです。筆者が禅を学ぶ過程で気付きました。おそらくこれまでの禅師たちにはそういう考えはなかったと思います。前回お話したように恐らく道元も悟りの延長上に神を見据えていたのではないでしょうか。道元が永平寺の本尊としていた阿弥陀仏や弥勒菩薩はなのです。つまりキリスト教で言う「エホバの神」と同じなのです。道元はさすがにわかっていたのでしょう。
一方、大多数の禅宗のお坊さんは阿弥陀如来信仰を持っているわけではなく、「ただ悟りを開くこと」のみを目標としているのでしょう。悟りを開いたその先のこととか、悟りの本当の意味などは考えていないと思います。今言いましたように、よく考えれば当然「神と一体化すること」になるのですが・・・。
 筆者の言う「禅は宗教ではない」とはこういう意味なのです。どちらの道を行くかですね。

 つまり、筆者は「禅とキリスト教やイスラム教はなんら矛盾するところはない。現代のキリスト教やイスラム教徒などの人達が忘れていた正しいモノゴトの観かたは禅にある。世界の危機を免れる重要な知恵だ」と言いたいのです。
註1 仏教にもキリスト教やイスラム教とほとんど同様の宗派があります。それは浄土思想です。仏教は釈迦以来「自力本願」つまり、努力によって平安に達することを教えてきました。それに対し、浄土思想は「ただ(絶対神である)阿弥陀仏におすがりする」という「他力本願」なのです。法然の考えがいかに革新的だったかお分かりいただけるでしょう。
 

 

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