悟りの境地(1,2)

悟りの境地(1)

 「悟りとは何だろう?その境地とはどんなものか?」禅に興味を持つ人ならだれでも知りたいところでしょう。「〇〇の音を聞いた瞬間」「〇○禅師の一言で」・・・古来悟りの瞬間がさまざまに伝えられてきました。しかしその内容は、それこそ「悟った人」にしかわかりません。しかしヒントは色々見つけ出せます。たとえば、以前ご紹介した青原惟信(生没年不詳、黄龍祖心(1025-1100)の法嗣、「嘉泰普灯録」巻六、続蔵/禅宗全書六‐三八八下」)の次の言葉があります。筆者訳でお話しますと、

 ・・・三十年前、未だ禅の世界に入っていない時、自分にとって、山は山と見え、水は水と見えた。その後、すぐれた師匠に出会って、悟りの契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった。それが落ち着いた今になってみると、あい変らず、山はただ山に見え、水はただ水に見える・・・

その解釈として井筒俊彦博士はつぎのように言っています(前回の関連ブログと合わせてお読みください。例によって難解な哲学的表現が使われていますので、筆者の簡約を記します)。すなわち、

 ・・・言葉というものはモノの真実を表現するには大きな制約がある。むしろ真実を歪めている。今、「山」と言ったとき、それは「山」の真相を表現しているのではない。禅問答では師匠が言葉を逆用して、言葉でがんじがらめになった弟子の思考の殻を打ち破る。その結果、弟子が目にした山は「タダの山ではない山の真相だ」というものです。そして「山でない山」こそ、根源的に無限定で、絶対にあるものとして把促しがたい究極者である「一者(註1)」そのものなのだ・・・

註1 これが哲学者の性癖で、簡単なことをわざわざむつかしくし、勝手に造語しています。要するに、私たちの言う「神とか、宇宙意識」のことと考えればいいと思います。「山でない山」とは神の創造物、というより、神の一部、神そのものだと言っているのです。

井筒博士はさらに、「それだけでは終わらない。『山でない山』から、ふたたび『ただの山』に戻らなければならない」と言うのです(以下原文で紹介します)すなわち、

 ・・・なぜなら「山は山にあらず」という矛盾命題の指示する絶対的無意味の次元から、人はさらに翻ってまたふたたび「山は山」という有意味性の次元に戻らなくてはならない・・・但し、今度は山と言う結晶体(つまりタダの「山」:筆者)を動きの取れない結晶体としてただ眺めるのではなくて、根源的非結晶性(「山ではない山」)が結晶体に転ずる形而上学的瞬間を通じて山を見るのであるけれども、この境位においては「山」は山を分節的に指定し指示する、が、同時にそれは山という分節を超えて絶対非分節的な「存在(宇宙真理でしょう:筆者」をも指示する(下線筆者、同p367)・・・
 ・・・絶対無分節者(神または宇宙意識でしょう:筆者)は、いわばどうしても自己自身を分節せずにおられない。「無名(山でない山:筆者)」は「有名(タダの山:筆者)」に転じていかずにはおられないのです。そして禅の観想的意識は、本源的形而上的「一者」が次第に自己分節を重ねつつ、ついに具体的事物事象の世界として完全に現象化された形で現れるところまで、「一者」の自己分節の全行程をくまなく辿るべく定められているのであります(下線筆者「意識と本質」岩波文庫p399)・・・

と言っています(哲学者独特の造語の多い難解な文章だと思いますので注解を入れました)。井筒博士のこの論述で、筆者が一番納得が行かないところは、太字の部分です。つまり、なぜ「絶対的無意味の次元から、人はさらに翻ってまたふたたび「山は山」という有意味性の次元に戻らなくてはならない」のでしょうか。「一者(宇宙意識、神:筆者)には、山でない山を元の山に戻そうとする意志がある」と、井筒博士は言いたいのでしょう。井筒博士は神の心がわかるのでしょうか。「観想的意識(坐禅で得られた観察)」では哲学の説明にはなりませんね。

 次回は、この「山」の課題について、筆者の考えをお話します。

悟りの境地(2)

 青原惟信(宋時代の禅師)の詩、

 ・・・三十年前、未だ禅の世界に入っていない時、自分にとって、山は山と見え、水は水と見えた。その後、すぐれた師匠に出会って、悟りの契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった。落ち着いた今になってみると、あい変らず、山はただ山に見え、水はただ水に見える・・・、

は、悟りの境地を表わしたものとしてよく知られています。前回、哲学者井筒俊彦博士の解釈を紹介しました。筆者の解釈は次のとおりです。すなわち、この詩は、有名な禅語「色即是空」を表わしたものです。色即是空とは、人間によるモノゴトの認識のしかたには2種類あり、それを合わせた姿がモノの真実の姿だと言っているのです。

 まず第一の段階、「山は山と見え、水は水と見えた」は、「私がいて山を見る」という、ごく普通のモノゴトの見かたで見た山や川のことを言っています。
 ついで第二の段階、「悟りの契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった」とは、「空」のモノゴトの観かた(文字を替えていることにご注意ください)を意味します。「空のモノゴトの観かた」については、すでになんどもお話したように、「私がモノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)一瞬の体験」のことです。 
 そして第三の段階、「落ち着いた今になってみると、あい変らず、山はただ山に見え、水はただ水に見える」とは、「空」で観たモノも「色」で見たモノも、じつはモノの表裏を表わしているのであり、モノの真相は、それらを合わせたものだというのです。このとき「ただ山に見える」と言っても、最初の「山」とは明らかに異なります。「色」と「空」のモノゴトのみかたが重なった状態なのです。

 人間の苦しみや悲しみは、モノを「色」の見かたで見るために生じるのです。では、「色」の見かたと「空」の観かたのどちらが大切でしょうか。もちろん後者なのです。「空」の観かたこそ、神(仏)の目で観たモノの姿だからです(後ほど改めてその理由をお話します)。しかし、「色」の見かたでみたモノも間違いなく存在するのです。
 
 「空」のモノゴトの観かたを心の底からわかるのは容易ではありません。「私がいてモノを見る」という認識の仕方が、人間が物心ついてから、そして周囲の誰もが「あたりまえのこと」としてきたのですから、「色」の見かたから「空」の観かたに180度、頭を切り替えるには修行が要るのです。第一、昔はいま筆者がお話してきたような、順序立てた解説などなかったのですから。

 上で、「空」で観たモノも「色」で見たモノも、モノの表裏を表わしているのであり、モノの真相は、それらを合わせたモノだとお話しました。じつは「合わせたモノ」とか「重なった状態」とか言う表現は正しくありません。「一体」でもありません。筆者は前著で「両者が振動している」と表現しましたが、禅では絶妙な言葉、一如で表しています。ここに禅の真骨頂があります。このことが腹の底からわかるために、修行者たちは命懸けで修行をしてきたのです。そしてこれが一つの悟りなのです。
 
 これが筆者の解釈です。いかがでしょうか。

「悟りの境地(1,2)」への2件のフィードバック

  1. 凡愚です。ご無沙汰いたしております。つたなき質問をお許し下さい。
    1 モノ(或いはモノゴト)の真相は、中野さんの御説からしますと、色の見方と空の観方が一如したものからみる必要はなく、空の観方によって得られるのではないでしょうか。
    2 仮に「色の見方と空の観方が一如したもの」からしかモノゴトの真相は見えない、としますと、それはどんな「みかた」で、そこからはどんな「真相」が見えるのでしょうか。愚考しますに、せいぜい色の見方と空の観方とを、瞬時にみかたを切り替えてみるとしか、言いようがないような気もしますが・・・・・?
    3 青原禅師は、「落ち着いた今となってみると云々」とおっしゃられているようですが、そうすると空の観方というのは、人は四六時中そういう観方をして暮らしていけるものではなく、普段は(社会生活的には)色の見方が普通で、煩悩や不安が起きそうになったら、空の観方に切り替えて対処するということではないのでしょうか。
    4 「あいかわらず山は山で、水は水にみえる」というのが、修行前にみたのと違うということですが、違わなくて(色の見方だから)よいのではないでしょうか。色の見方というのは、修行には関係しないように思われますが・・・・・・?

    以上、相変わらずのていたらくですが、よろしくご教示の程、お願い申し上げます。

    1. 凡愚様
       メール嬉しく拝読しました。とても重要なコメントですから、改めてブログ本体で私の感想を述べさせていただきますね。

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