「正法眼蔵」のむつかしさ
道元の「正法眼蔵」は、わが国古典の中で最も難解なものとされています。筆者もなんとか道元の真意を読み解こうとしていますが、理解の難しさの理由の一つとして、道元はじつに巧みにピントをずらして論述しているせいだと感じています。それはもちろん、禅では答えを直接明示せずに、あくまで修行者自身に気付かせることが教えの根本だからでしょう。それにしても、道元がピントをずらす巧みさには、しばしば驚嘆するのです。
「隠し絵」というものがありますね。子供向けの絵本によくある「この森の中に動物が隠れています。それはなんでしょう」と言う類いです。そのごく高級なバージョンと考えていただければいいでしょう。
「正法眼蔵」の解説書はたくさん出されています。しかし、そのほとんどは、原文をそのまま和訳したものに過ぎません。原文は当時の多くの文書と違ってかな交じりの文で、比較的読みやすいのですが、そのまま現代文に訳してもほとんど意味がわからないのです。そうではなくて、その奥に隠されている真意を読み取らなければならないのです。真意がわからなければ正しい訳もできるはずがありません。へたな外国語通訳と同じで、「言っていることはわかるけど、意味がわからない」ことになるのです。
筆者の尊敬する元東京大学医学部教授で、文部大臣だった橋田邦彦先生は、「20年にわたって正法目蔵を研究してきた。そして今でも毎日それを勉強している」とおっしゃっています。橋田先生が「正法眼蔵」の解読を志されたころ、永平寺の眼蔵会講師であった岸沢惟安師(1865-1955)による解説書が部分的に出版されていました。しかし、橋田先生は現代の解説書は一切斟酌されず、ただ、東京大学図書館で見付けた「正法眼蔵御抄(註1)」を手掛かりにしながら独力で理解することに努められたのです。正しい判断だったと思います(筆者も岸本師の著書を読んでみましたが、手に負えませんでした)。
註1「正法眼蔵」の解説書。弟子詮慧が道元から直接聞いたことを、その弟子経豪が記したもの。すでに当時から、「正法眼蔵」が難解であったことが知れます。なお、「正法眼蔵」を漢文で翻訳したものもあると聞きます。当時の人々にとって漢文は教養の必修科目で、道元の仮名交じり文より理解しやすかったのかも知れません。
筆者も87巻のさまざまな部分を読む時、最初はさっぱりわからないことがしばしばです。何日も考えます。そうしていますと、あるとき「スッ」と腑に落ちることがあります。
このことを念頭に入れていただいた上で、次回お話しする「正法眼蔵 即心是仏」をお読みください。