即心是仏‐「正法眼蔵」(1)
「無門関」第三十則にもある重要な公案です。道元は、「正法眼蔵・即心是仏巻」の中で(以下、現代語訳はネットから記事を引用させて頂きました。その内容には筆者は批判的なので、出典は省略させていただきます。太字は「正法眼蔵・即心是仏」巻の原文です:筆者)。
仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり
訳:仏たち祖師たちが、連綿と護持してきたものは、即心是仏(この心がそのまま仏である)だけです。
即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。いまだ発心 修行 菩提 涅槃せざるは、即心是仏にあらず・・・いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり
訳:即心是仏の人とは、仏道を発心し、修行し、悟り、成就する諸仏のことです。いわゆる諸仏とは、つまり釈迦牟尼仏です。ですから、過去 現在 未来の諸仏が皆 仏になる時には、必ず釈迦牟尼仏になるのです。
さらに、
いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり・・・古徳云く、作麽生(そもさん)か是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰
訳:また昔の釈尊や優れた祖師たちが、正しく伝えて来た心というのは、「心とはすべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である」ということです。清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である」とも説いています。
(ここは道元の思想の重要な部分ですから、後で改めて解説させていただきます:筆者)
さらに道元は、大証国師慧忠(675‐775)と、南方から来た僧とのやり取りを紹介しています(以下「師」とは大証国師のことです:筆者)。すなわち、
師曰く、「南方に何なる知識か有る。」
僧曰く、「知識 頗(スコブ)る多し。」
師曰く、「如何が人に示す。」
僧曰く、「彼(カ)の方の知識、直下(ジキゲ)に学人に即心是仏と示す。
訳:師、「南方にはどのような師がいますか」
僧、「師は大変多いです」
師、「どのように人に説いていますか」
僧、「あちらの師は、すぐ修行者に即心是仏(この心がそのまま仏である。註1)と説きます。
身中に遍(アマネ)く頭に挃(フル)れば頭知り、脚に挃れば脚知る。故に正遍知と名づく。此れを離れての外、更に別の仏無し。
訳:この本性は身体の中に行き渡っていて、頭に触れれば頭が知り、脚に触れれば脚が知るのである。そこで、これを正遍知と名付ける。これ以外に決して別の仏は無い。
此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来未だ曾て生滅せず。即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説は大約 是(カク)の如し。
訳:この身体は生滅するものであるが、心の本性は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはない。つまり、我々の身体は無常なものであるが、その本性は常住であると。南方で説かれていることは、だいたいこのようなものです。
それを聞いた大証国師は、「それでは、かの先尼(註2)が言ってることと同じではないか」と答えた。そして道元は先尼の思想を紹介しています。すなわち、
外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛癢を了知す。
訳:外道(註2)の種類になると言うのは、昔インドに外道がいて、その名を先尼と言いました。彼に説によれば、大道は我々の今の身にあり、その様子は容易に知ることが出来る。いわゆる我々は、苦楽をわきまえ、冷暖を知り、痛痒を知ることが出来る。
彼が云く、我が此の身中に一の神性有り。此の性能(ヨ)く痛癢を知り、身の壊(エ)する時、神(シン)は則ち出で去る、舎(イエ)の焼かれて舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なりと。
訳:先尼が言うには、「我々のこの身体の中には一つの神性がある。この神性は、よく痛い痒いを知り、身体が死ぬ時には、その神性は出て行く。あたかも家が焼けて、家の主人が出て行くようなものである。この家は無常なものであるが、家の主人は変わることがない」と。
註1 中国南方で説かれている「即心是仏」が、道元が説く「即心是仏」と同じ言葉であることに注意してください。つまり、大証国師(道元)は、「向こうの解釈は間違っている」と言っているのです。
註2 外道とは仏教徒以外の者。先尼とは、釈迦以前のインドのヴェーダ信者。大証国師や道元など、大乗仏教徒が、ヴェーダ信者や初期仏教徒を見る目は厳しすぎます。外道とか、先尼、小乗などの言葉は明らかに貶称です。後ほどお話しますが、筆者はむしろ彼らの思想の方が正しいと思っているのです。
即心是仏‐「正法眼蔵」(2)
道元は先尼の思想を批判して、
若し見聞覚知を以て、是を仏性と為さば、浄名は応(マサ)に、法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知にして、法を求るに非ず、と云ふべからず。
訳:もし見たり聞いたり考えたり知ったりするものが、仏の本性と言うのなら、維摩居士が「真実の法は、見る聞く考える知るということから離れている。もし見る聞く考える知るということを行えば、これはただ見る聞く考える知ることであって、真実の法を求めることにはならない。」とは言わなかったであろう。
そして道元は、
いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗(註3)ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著(モンジャク)あり、行取あり、証著(ショウジャク)あり。
訳:いわゆる仏祖の護持している即心是仏は、外道や小乗の修行者には、夢にも見ることが出来ないものです。これはもっぱら、仏祖だけが即心是仏を明らかにしてきたのであり、究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのです。
つまり、道元は、「(大証国師の時代に)南方で行われていた教えは、いわゆる先尼の思想であり、それを同じ言葉『即心是仏』で言うのは大きな誤りだと言っているのです。
註3 大証国師や道元のような大乗仏教徒が、それ以前の部派仏教徒のことを小乗と貶めて呼ぶ言葉。
道元や大証国師が先尼(釈迦以前のヴェーダ信者)や初期仏教(二乗)を激しく批判している理由:
要するに先尼(ヴェーダ信徒)や二乗(初期仏教徒)が言うのは、人間には本来神性があるであり、道元や大証国師はあくまでも神性(仏性)は悟りに至った者だけに現れると言いたいのです。しかし、道元たちと先尼や小乗仏教徒(いやな言葉ですが)の論点はズレているのです。なぜなら、もちろんヴェーダ信徒や初期仏教の人達も修行を不可欠のものとしていますし、道元の主張によっても悟りに至った者には神性はあることになるからです。とすれば、その神性はどこから来たのでしょうか。やはり、もともと人間が持っていたとしか考えられません。つまり、道元や大証国師の言うことはなんら矛盾していないのです。目くじら立てて痛罵することではないと思います。
筆者は、むしろヴェーダや、部派仏教の一つ、説一切有部の考えに共感しているのです。
道元や大証国師がヴェーダ信徒や部派仏教徒を批判する言葉の激しさには戸惑いを覚えます。釈迦仏教はヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題)として成立したことは、前にお話しました。ヴェーダの思想は「人間には本来個我(アートマン)という、不変のものがあり、肉体が滅びても永遠に残る。人間が転生を繰り返すうちに心のあり方を正しくして行けば(梵、ブラーフマン。神ですね:筆者)と一体化できる」というものです。
釈迦仏教では「すべては縁によって成り立つものであり、梵とか個我のような固定的なものの存在は認めない」と言うのですから、対立するのは無理はありませんね。面白いことに、初期仏教の中にもヴェーダ信仰と同じ思想があるのです。つまり、初期仏教(部派仏教)の中に、早くも釈迦の思想に反対する人たちが出てきたのです。部派の一つ、説一切有部の「有」とは、「個我のように不変なものがある」と言う意味です。説一切有部が、他の部派や大乗仏教徒から排撃されたのは当然でしょう。しかし、およそ宗教にあっては、他の宗教や宗派を攻撃するのは神の心に反する行為です。
繰り返しますが、筆者は、むしろヴェーダや説一切有部の考えに共感しているのです。釈迦仏教は、ヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題)として出発したために、かえってそれに足を取られ、正しい方向に進めなかった野だと思います。とくに大乗仏教徒がヴェーダ信仰や部派仏教のうちの説一切有部などを悪しざまに言うのは、天に向かって唾を吐く行為だと筆者は思うのです。
即心是仏‐「正法眼蔵」(3)
道元が仏(神)の存在を認めていた理由
この「正法眼蔵・即心是仏」で道元は、
いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
つまり、「いわゆる仏祖が正しく伝えて来た心とは、すべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である」と言うのです。
古徳云く、「作麽生(ソモサン)か是れ妙浄明心山河大地(センガ ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)」・・・心とは山河大地なり、日月星辰なり。
また昔の高僧達も、「清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である・・・心とは山河大地であり、太陽や月や星である」
と言っているのです。
つまり道元は、悟りに達した者のみの心が認識する山や川、日月や星こそ真の実在である(だから発心し、修行し、菩提、涅槃に入るように努めなさい)と言っているのです。悟りに達した者の眼で見た自然とは、仏(神)の目で見た自然だというのが論理的必然です。道元自身がそうと自覚していたかどうかはわかりません。しかし、
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる(「正法眼蔵・生死巻」)
の仏とは、まさに神仏の「仏」ではないですか。
筆者は、人間には本来仏(神)性があり、ふだんは潜在意識の中に眠っている。それが修行や禅の学ぶことによって顕在意識、そして神仏と通じるようになると考えています。それが悟りなのです。しかし、なにも禅の修行だけが、神の心に通じるための必須要件なのではありません。すぐれた芸術家や科学者は、常人以上の努力と集中力によって偉大な成果を挙げています。漱石は禅を学んだそうですが、芥川や谷崎についてはそういった話は聞きません。「モーツアルトの音楽には神の心が感ぜられる」と言う意味のことを小澤征爾さんが言っています。天才とは「生まれながらに神の心に通じている人」ではないかと思います。しかし天才でなくても神の心に通じることはできるのです。それは懸命な努力によって成し遂げられるのだと思います。イチローがどれだけ努力と工夫を知っているかをご存知の人は多いでしょう。
話を元に戻します。道元は禅思想のバックグラウンドが仏(神)であると認識していたはずです。それは道元の書いたものや言った言葉から明らかです。本人がそれをどこまで認識していたかどうかはわかりませんが。