釈迦も驚く神仏習合
前回、「道元は釈迦仏教を乗り越えた人だ」とお話しました。禅、つまり仏教の背景には仏(=神)の存在があることを示したのです。この問題について読者の方から「神仏習合思想を初めて提唱したのは泰澄ではないか」という質問をいただきました。
泰澄は奈良時代の僧(682-767)で、越前の越智山で修行し、遥かに見える加賀の白山で、十一面観音と感応して白山信仰を開いた人として知られています。白山信仰は修験道を旨とするもので、要するに仏教と日本古来の神道とを習合させたと言われているのです。この思想は、有名な役行者(634‐701)創建と伝えられる吉野の金峯山寺や大峰山寺や熊野三山(熊野三社)でも起こり、独特の教理を作り出しました。神とは仏が人々を救済するために現れたという本地垂迹説を提唱しています(註1)。あの京都聖護院や日光東照宮も神仏習合の例ですね。岐阜県にある白山の登り口には、白山長滝寺と長滝白山神社(名前が逆になっただけです)が同じ敷地内にあり、もとは両者が回廊でつながっていて、神社信仰を担う僧侶もいたそうです。現代の私たちから見れば唖然とするような姿ですね。
つまり、質問者がおっしゃる通り、道元以前に仏教思想の中に神仏を見出したのは泰澄と言えなくもありません。しかし、神仏習合思想は釈迦仏教から外れるものだと筆者は考えています。「ほとんど無関係だ」と言ってもいいでしょう。本地垂迹の考えには、両者を無理にくっつけたような不自然さがあります。神道には仏教と違って体系的な思想というものはありません。神仏習合の考え方と道元の思想はまったく別のものです。今でも山伏の修行の様子を見ればわかるように、厳しい修行を通して直接自然神と一体化しようとするものなのです。つまり、思想を飛び越えているのです。
これらの、神社とお寺が一体化した体制が、明治政府による神仏分離令によって事実上解体されたことはよく知られています。修験道さえ禁じられました(その後復活しました)。前述の白山長瀧寺と長瀧白山神社も完全に分離され、両者をつなぐ廊下も取り払われました。神仏分離令が、天皇を神とする皇国史観に基づく明治政府の政策であったことはよく知られています。しかし、筆者にはどうしても、両者をつなぐことの無理が大きかったことも理由の一つだと思えてなりません。神仏習合思想は、やはり消えて行く運命にあったのでしょう。もちろん修験道は真摯な修行であることに変わりはありません。
これに対し、仏教は二千年以上に亘る思想の熟成があります。その底流には絶対者としての神仏があったと筆者は考えるのです。それについてはすでにお話しました。そして、「そのことを初めて仏教史に位置付けたのが道元だ」と筆者は考えるのです。
発見とは、それがこれまでの歴史の中に位置づけられることです。「アメリカ新大陸を発見したのは、コロンブスではなくて北欧のバイキングたちだ」という考えがあります。しかし、たとえそうであっても、バイキングによる発見は世界史に位置づけられることはありません。泰澄や役小角の考え(よくわかりませんが)は、仏教史のどこへも位置づけられるものはないのです。
註1「いや神が仏の姿を借りて現れたのだ」という、神道の側からの反論もあり、神本仏迹説と言います。いずれにしても無理があります。