禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(1-3)

禅の空思想と龍樹の空思想とは異なる(1)

 以前のブログで禅の空思想と龍樹の空思想とは異なるとお話しました。それに対してある読者から「龍樹の空と禅の空は同義。何か深い配慮が龍樹の空と禅の空が違うと言わしめるなら検証の要あり。空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントがありました。言葉足らずのところがあったかも知れませんし、重要な課題ですからもう一度お話します。

 龍樹(ナーガールジュナ、AD100‐200頃のインドの人)は、空思想を初めて体系化した人で、その影響は大きく、仏教中興の人とも言われています。龍樹の主張は、それまでの部派仏教の一会派説一切有部の思想に対する反論として展開されました。
 釈迦の死後100年ほど経つと、仏教は上座部と大衆部に根本分裂し、さらに上座部は多くの部派に分かれました。その中でも最大会派であった説一切有部は、この世界を成り立たせている一切の法(=原理 ダルマ)が過去・現在・未来の三世にわたって実在するとすると考えます。そして原理に支配されたモノが現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在をへて過去にいたって常に存在し続ける(三世実有・法体恒有、つまり自性がある)と言うのです。説一切有部は「自性が有る」の意味です。

 ちょっとわかりにくいと思いますので、釈迦仏教以前からあったヴェーダ信仰を引用して説明します。釈迦仏教はヴェーダ信仰の対立命題として成立したものですから、筆者のこの言い回しはおかしいのですが、まあお聞きください。そのヴェーダ信仰では、人間には個我(アートマン)というものが内在し、肉体が滅びても残ること、それが転生してまた新しい肉体を得てこの世に現れる。その現世で心のあり方を向上させるのを繰り返すことによって、ついには神(梵、ブラーフマン)と一体化する」とする考えです。つまりヴェーダ信仰では「個我も梵もそれ自身で存在する」と言うのです。「それ自身で存在する」を説一切有部では「自性がある」と表現しました。

 ここで慧眼の読者はおわかりでしょうが、この頃までに釈迦仏教は分裂を重ね、釈迦の思想はどこかへ行ってしまったのです。もちろん部派の中には、説一切有部の考えは釈迦の思想から外れるものとして、他の部派から厳しく批判されました。ただ、説一切有部は勢力も大きかったですから、その思想を打ち破るのは大変だったのです。そんな状況の中で現われたのが龍樹でした。

龍樹の空理論

 龍樹は釈迦の教えの中でも中心的だと思われていた縁起の法(註1)を援用して、反論しました。すなわち、あらゆる法(原理)とそれに基づいて生起したモノやコトは必ず他の法(原理)に依存している。つまり、それ自身で存在する法やモノゴトなどない(自性などない、無自性)と言うのです。そしてそれが「空」だと主張するのです。龍樹のこの考えは多くの支持を得て、やがて大乗仏教が発展するきっかけになりました。大乗仏教はインドだけでなく、チベット、西域、中国、朝鮮、そして現在の日本へと続いている大きな思想体系ですから、龍樹が仏教の中興の人と言われるのがおわかりいただけるでしょう。

註1じつは縁起の法は、釈迦の思想が拡大解釈されたものだと筆者は考えております。釈迦の思想がその後1000年以上にわたって拡大、整理(増広と言います)され続けて来たことがキリスト教などとは大きく異なる特徴です。この問題についてはいずれまとめてお話します。

禅の空理論

 一方、筆者がくりかえしお話しているように、禅の空理論では、「私たちがモノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)という体験こそが真の実在」なのです。つまり説一切有部や龍樹の言う「法(原理)やモノに自性があるかないか」とはまったく別の問題、つまりモノゴトの観かたなのです。
 筆者は龍樹の「中論」(中村元「龍樹」講談社学術文庫)を読んでいて、禅の空思想と龍樹の空思想とは異なることに気付きました。
 読者の皆さん、上記のような批判をされる前に、筆者のブログシリーズ全体をよくお読みください。

禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(2)

 龍樹の思想の問題点

 龍樹は釈迦の縁起の法を援用して、部派仏教の一つ、説一切有部の「法(そっしてそれに支配されて現われたモノ)にはそれ自体で成り立つ自性がある」を否定し、「すべては縁によって成り立っているのであり、自性などない(つまり無自性)、それがすなわち空なのだ」と言いました。この考えは、以降の大乗仏教の発展の大きな礎になり、これが仏教中興の祖と言われるゆえんです。

 しかし筆者は、下記のように、縁起の法は釈迦の思想を拡大解釈したものだと考えています。仏教を大乗経典類から初期仏教の思想(パーリ仏典)へと遡って行くと、だんだん釈迦自身がおっしゃったことがボンヤリして来るのを感じます。ヤフー知恵袋というコーナーがあるのをご存知でしょうか。だれかが「〇〇について教えてください」と投稿しますと、「われこそは」という人たちが回答を書き、その中で質問者が「なるほど」と思った回答を「ベストアンサー」とするものです。以前、「般若心経の作者はだれですか」という質問があった時「それは釈迦です」という回答が「ベストアンサー」とされているのを見て、筆者は吹き出しそうになりました。結論から先に言いますと、漢訳者は鳩摩羅什(AD344-413 インドの人)であることはわかっていますが、作者はわかっていないのです。
 ことほどさように、仏教思想は釈迦以後、原始仏教→部派仏教→大乗仏教と変化して行くうちに、次々と新たな解釈と追加が加えられたのです。これが仏教がわかりにくいことの最大の原因だと、筆者は考えています。

 「一体各教典の前後関係はどうなっているのだろう」と、まじめな僧侶・研究者ならだれでも考える疑問でしょう。各教典を読み比べてみますと、お互いに矛盾する内容があるからです。鳩摩羅什の弟子慧観(中国南北朝時代の人)は、釈迦が悟りを開いてから亡くなるまでの45年間を5つの時期に分け、
  1)鹿野園で四諦転法輪を説いた
  2)各所で大品般若経を説いた
  3)各所で維摩経・梵天思益経を説いた
  4)霊鷲山で法華経を説いた
  5)沙羅双樹林で大般涅槃経を説いた
としました。「五時(五つの時期)の教判」と言います。仏教の各宗派がそれぞれ、「最初に説かれた法に依拠しているから我が宗派は正しい」とか、「最後に説かれた最高の法である正しい」と言っていることが、仏教を知る上での大きな問題なのです。

 「しかし、いくらなんでもそれはおかしい」と考えた人も多かったのですが、この問題に初めて科学的分析を加えたのが、江戸時代中期の学者富永仲基(1715‐1746)です。富永は大阪の大商人たちが作った私立の学問所・懐徳堂出身の学者で、わずか32歳で早世しましたが、明治の東洋史学者内藤湖南が「大天才」と呼んだ人でした。本当にすごい人です。富永は主著「出定後悟」の中で、「仏教思想(全部で4500巻以上ある)は、古いものがだんだんと批判され、積み重なって変質して行った」との考え(加上説)を提出しました。この思想をもって「大乗経典は、釈迦の思想とはまったく異なる」と言ったのは作家の司馬遼太郎ですが、それはちょっと言い過ぎだと筆者は思います。「積み重なって変質して来た」が正しいと思います。大乗経典類の中でも釈迦の思想の痕跡は残っていると思います。
 このように、大乗経典類→部派仏教→釈迦の思想と遡っていきますと、釈迦の思想そのものがどんなものかがよくわからなくなってしまうのです。このことを頭に刻むことが仏教を学ぶ上で大切なことだと思います。

 さて、龍樹が援用したのは釈迦の「縁起の法」だと一般には言われていますが、釈迦の本当の思想は「因果の法」だと筆者は解釈しています。つまり、「あらゆる苦しみには原因(因)がある。そのことに気付き、それにこだわるのをやめなさい」という、素朴な生活の知恵だったのだと思うのです。それが因果の法→因縁果の法→縁起の法と拡大解釈されていったのでしょう。因縁果の法とは、たとえば、いま爆弾が破裂したとします(因)。その被害の大きさ(果)は、たまたまその人が物陰に居たかどうか(縁)で決まる、というわけです。龍樹が援用したのは「あらゆる原理やモノは、他の要因によって決まる」ですが、それは釈迦の因果の法を拡大解釈したものだということがおわかりいただけるでしょう。

 龍樹の誤り?

 「龍樹が説一切有部の思想を批判するのに使った縁起の法には限界があった」と筆者は思います。なぜなら、縁起の法は神という絶対者の存在さえ認めないからです。「あらゆる宗教はそのバックグラウンドとして神(=仏)を持っているのは論理的必然である」と以前お話しました。もちろん仏教は宗教の一つです。

 禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(3)

 禅は般若経典の流れとは異なる思想 

 筆者はこのブログシリーズで、「龍樹の空と禅の空は無関係である」とお話しましています。その理由にはもう一つあります。禅の初祖達磨大師(5世紀後半から6世紀前半の人)が、南インドのある国の王子として生まれ(註1)、中国南北朝の宋の時代(520年頃)に中国にやって来たとされています。「景徳傳燈録」(代々の禅師たちの言葉をまとめた書)によれば、達磨大師は釈迦から数えて28代目です。
 
 そもそも、中国へ仏教が伝来したのは紀元1世紀とずいぶん古いことでした。そして龍樹(インドの人)が「空」思想を体系化したのは紀元2‐3世紀で、その後の大乗仏教の発展のキッカケになったと言われています。「祖師西来意(祖師達磨大師がはるばる西から中国へやって来た意味は何ですか)」は、よく知られた禅の公案ですが、歴史的事実でもあるのです。つまり、達磨は中国の仏教界へ横から割り込んできた人なのです。ちなみにあの玄奘三蔵(602-664)が般若系経典をまとめて「大般若経」と名付けたのは、達磨大師が中国へ来てから100年も後のことですし、わが国の弘法大師空海が密教を中国からもたらしたのは806年です。これらの経緯から考えて、禅は中国仏教界とは別の思想体系であると言った方がいいと思います。

 最初に達磨を迎えた梁の武帝(464‐549)との次のやり取りは有名です。

 武帝:私は即位以来、多くの寺を建立したり、写経をさせたり、たくさんの僧侶を得
    度させてきたが、どんな功徳があるでしょうか。
 達磨:なにもない。
 武帝:なぜですか。
 達磨:そんなことは煩悩の種を作っているだけだ。
 ・・・・・・
 武帝:仏法の根本義とはなんでしょうか。
 達磨:カラリとして聖なるものはなにもない。
 武帝:私の前にいるあなたとは何者でしょうか。
 達磨:そんなことは知らない。

 とやり取りし、達磨は「これはだめだ」と、武帝の元を去ったそうです。

註1 ペルシャ人との説もあります。

 そして禅は唐時代になって、慧能(六祖638-713)、南嶽懐譲、馬祖道一、百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄などのすぐれた禅師たちが輩出して隆盛を極めました。

 色即是空・空即是色は、よく知られた般若心経にある言葉です。「般若心経は禅の要諦である」との考えには異論はないようです。その観点に立って禅の空思想を考えてみれば、文字通り(シキ、モノゴト)と対句として用いられています。龍樹の考えでは、独立したモノなどもともと存在しないのですから、禅のようにと対句になるはずはありません。このことからも、禅の空思想が龍樹の空思想とは別ものであることがおわかりいただけるでしょう。
 色即是空・空即是色については、次回改めてお話します。
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 今回の投稿者の「空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントは・・・・。

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