禅の要諦‐今日だけを生きる(1,2)

禅の要諦‐今日だけを生きる(1)

 本年初場所で稀勢の里関が初優勝した時のインタビューの、「今までの道は辛くて長くて大変だったでしょう。どんな気持ちで耐えてきましたか」の問いに対し、「一日一番の気持ちでやってきました。これからもそうして行きます」と言っていたのがとても印象的でしたね。

 今回のテーマは、禅に関するシリーズのまとめとして、もっと後でお話しする予定でした。しかし、現在ガン闘病中の人や、寝たきり老人の介護、認知症の連れ合いや、重い病気の家族の世話など、過酷な状況にあって、先の見えない日々を送っている人がたくさんいます。また大震災や不慮の事故で、かけがえのない肉親を失って取り返しのつかない日々を送っている人もいます。また長い間の引きこもりという、ともすれば家族からもわかってもらえない、つらい人生を送っている人も少なくないと言います。

 このブログシリーズでは、「禅の心を、少しでも苦しんでいる人たちにお伝えできれば」と考えています。もちろん筆者が禅についてわかったことはごくわずかです。しかし、大乗仏教に、「自未得度先度他(たとえ自分が未熟でも、まず他の人を助ける)」という基本的な立場があります。その言葉を拠り処にして発信続けています。
 いま述べた人たちの苦しみは、筆者のこれまでの体験とは比較にならないほど大きいと思います。それでもなんとかエールを送りたいと思っているのです。それらの人たちの多くは筆者のブログシリーズなど読んだことはないと思いますし、今でもそんな心の余裕もないでしょう。しかし、誰かがこれを読んで下さって、友人達にも伝わるかもしれません。

 相撲の世界では、昨日の失敗を引きずっても、明日の不安を思っても、絶対に今日勝つことはできないでしょう。稀勢の里の上記の言葉こそ、勝負の世界を生きている人が必死に学んだ教訓でしょう。その経験に基づいた言葉が「一日一番」なのだと思います。

 元横綱で相撲協会理事長だった北の湖さんが、現役時代のインタビューで「ピカッ」と光ることを言っていました。優勝した場所のすぐあとで、アナウンサーの「序盤に2敗された時は『今場所は優勝はダメだ』と思いましたか」と質問に対し、「いやそんなことはありません。一番一番懸命にやろうと思っていました」。「では終盤になって他の力士の負けが込んできたときは『これは行けるかもしれない』と思いましたか」と問うのに応えて、やはり、「いえそんなことはありません。一番一番に全力を尽くすだけだと思っていました」。そして北の湖さんは見事に優勝したのです。

 いかがでしょうか、北の湖さんや稀勢の里さんのような勝負に生きている人の言葉がこれなのです。比叡山の千日回峰行を生涯に2度も達成した酒井雄哉師に「一日一生」という著書があります。すさまじいばかりの苦行を乗り切った人です。北の海さんや稀勢の里さんの言葉と同じですね。だれも助けてくれない、自分一人で耐えなければならない人たちが、はからずも到達した境地なのでしょう。

 じつは、これこそ禅の要諦なのです。禅にもまったく同じ思想があるのです。禅は先人たちが数百年にわたって学んで到達した真理・・・正しいモノゴトの観かたなのです。けっして単なる「はげまし」や叱責などではないはずです。

禅の要諦‐今日だけを生きる(2)

 「空思想」とは、「私がいてモノを見る」という、これまでのモノの見かたとは異なり、「私がモノを見るという体験こそが真実だ」とくり返しお話してきました。「モノを見る」という体験は一瞬です。良いとか悪いとか、きれいだとか汚いという価値の判断は入り込む余地はありません。まずここが大切な点です。そして、体験は一瞬ですから、「限りなくゼロに近い一瞬の連続が人生だ」とも言います。
 「そんなことを言われても」と言う人は多いでしょう。当然です。私たちは物心ついた時からずっと、「私がいてモノを見る」という「モノゴトの見かた」に馴らされてきましたからです。モノゴトの見かたを切り替えればいいのです。簡単ではありません。ある程度の訓練は必要でしょう。それが修行なのです。

 しかし、世の中には「私がいてモノを見るというモノゴトの見かたは真実ではないのではないか」と気が付いた人もいるのです。ドイツのE.カントやわが国の西田幾多郎などです。西田は旧制高校生の頃からそんな疑問を持ち続けていたそうです。それが有名な「善の研究」になって結実しました。カントも西田も後に哲学者になりました。やはり彼らは非凡なのでしょう。
 
 筆者は30年ほど前、大きな問題に直面し、「いったいこれからどうなるのだろう」と不安に駆られた時期があります。次々に心配な要素が出てくるのです。その時相談した恩師から、「目の前の事態を一つ一つ対処して行けばいいのです」と言っていただき、心が休まったことがあります。そしてそのとおりだったのです。心配したことの多くが杞憂でした。そんなことは起きなかったのです。そして数年後、問題は見事に解決しました。それ以降も問題が起きるたび、いつもそれを信条として解決してきました。

 じつは、筆者が以前読んだD.カーネギーの「道は開ける」(創元社)にも同じようなことが書いてありました。苦しくてどうしたらいいのかわからず、ニッチもサッチも行かなくなった人たちへのアドバイスです。カーネギー自身の経験から導き出した人生訓なのです。カーネギーのアドバイスの主旨は「現在と、苦しかった過去、不安でたまらない未来との間にバリアーを作って不安の元を遮断し、今日だけを生きる」でした。どんなにつらい過去があっても、どんなに不安な未来があろうとも、「今日は生きている」と言うのです。「少なくとも今は間違いなく生きている」のですから。名言ですね。

 禅でも同じことを言っているのです。両者は別々に発想されたものでしょう。しかし、まちがいなく、人間が生きて行く上の大切な智慧なのです。

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