三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(1、2)

三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(1)

 「正法眼蔵」には第四十一・三界唯心巻があります。道元が三界唯一心・心外無別法について触れた部分です。三界とは、ためしにネットで調べてみますと、

・・・仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域を、(1)欲界、(2)色界、(3)無色界の3種に分類したものを三界といいます(註1)。
(1)欲界はもっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域です。
ここには地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6種の生存領域(六趣、六道)があり、欲界の神々(天)を六欲天といいます。
(2)色界は前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域をいいます。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名で呼ばれています。
(3)無色界は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界です。ここの最高処を有頂天(非想非非想処)と称します(註2)・・・

こういう説明は多いのですが、まずこの解釈に問題があるのです。そこで、そこからお話します。三界と言うのは世界とか空間ではなく、心の状態のことなのです。ついでに言いますと、六道という言葉についても同じような誤った解釈があるのです。六道と言うのは、やはり、世界とか空間ではなく、心の状態のことなのです。ここをはっきりさせないと道元の思想はわかりません。

註1 釈迦はこの三界や六道での輪廻から解脱しているとされています。
註2 以前のブログで「地獄極楽思想は日本独自のものだ」とお話しました。
源信(942‐1017)が仏典類をよく調べて「往生要集」を書いたと言います。
地獄極楽思想は、この三界とか六道を誤解したものでしょう。

 三界や六道を、上記の引用「生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域(空間)としてしまうと、当然、輪廻転生と言う概念に至りますね。しかし、そもそも釈迦が輪廻転生について話すはずがありません。
 以前のブログで「そもそも釈迦仏教は、それ以前のヴェーダ信仰の対立命題として始まった」とお話しました。インドでは古くから輪廻思想がありました。しかし、それは、カースト制度という厳しい身分制度の理論的根拠となっていたのです。たとえば上位のバラモン(宗教者)やクシャトリア(武士)階級の人間は、死後も高い世界に至り、また生まれ変わるときにバラモンやクシャトリアになる。一方、バイシャ(一般市民)は上位の天空界へは行けない。さらにスードラ層は輪廻のサイクルからも外れていると言うのですから。
 「それはおかしい」と言ったのが釈迦なのです。釈迦が輪廻転生説を口にするはずがありませんね。そんなものは、明らかに後代付け加えられたものです。さらに、釈迦は「死んだ後はどうなるかなど、よくわからないことについては話題にするな」と言ったのです。無記と言います。インドの大衆から熱烈な歓迎を受けたのはこのためなのです(註3)。釈迦の思想をたどっていきますと、あくまで現実に即したものであり、大乗経典類のような観念的なものとは異なることがよくわかります。

註3 その後仏教がインドから駆逐されてしまった理由の一つもここにあるのです。すなわち、現代に続くインドの根強い身分制度の恩恵を受けている「上流階級」の人間が、釈迦仏教を排斥したのは当然でしょう。ちなみにもう一つの理由が、インド人には国民性ともいうべき強い現世利益志向があるのでしょう。これらの理由にマッチしたのが、今に続くヒンズー教なのです。
もちろん釈迦仏教には現世利益思想などまったくありません。

 前置きが長くなってしまいました。次回、本題の三界唯一心・心外無別法についてお話します。

三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(2)

 前回お話したように、「正法眼蔵」には第四十一・三界唯心巻があります。道元が三界唯一心について触れた部分です。

この言葉は、もともと「華厳経・十地品」、とくに八十華厳の「三界所有、唯是一心」に由来するもので、心外無別法と対句として使われることが多いです。しかし、この重要な言葉にも誤った解釈が少なくありません。たとえば、

 「曹洞宗東海管区教化センターHP」では、道元の「正法眼蔵・三界唯心」の解説として、

 ・・・全宇宙のあらゆる現象は唯一心の現れだしたものであり、全存在は実在性のないものであるということであります・・・(中略)・・・私たちが認識し存在していると感じている世界は所詮私たちの心が、有る無しと認識しているにすぎないのであり、私たちの心を離れては存在するものではないのであります・・・

と解釈しています。これでは唯識思想と同じになってしまいます。唯識思想については以前このブログでもお話しましたが、要するに
 ・・・この世界のすべてのモノゴトは縁起、つまり関係性の上で現象しており、それを人が認識しているだけである。心の外に事物的存在はない ・・・
という思想であり、以下にお話するように、道元の思想とは違うのです。
 
 前回、「三界とか六道輪廻の思想が、死後の空間などではなく、心のあり方の問題だ」とお話しました。道元はこの前提に従って「正法眼蔵・三界唯心」を述べているのです(註1)。道元はまず、

 釈迦大師道(い)わく「三界は唯、一心にして、心の外に別法無し。心・仏、及び衆生、是の三は、差別無し。一句の道著は一代の挙力(こりき)なり、一代の挙力は尽力の全挙(ぜんこ)なり。

 三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法はない。心も、仏も、衆生も別のものではない。この一句は、釈迦が一代の総力をあげてなされたものであり、三界唯心とは、釈迦のさとりのすべてである・・・

と言っています。つまり道元は、「三界、すなわち世の中のできごと、つまり、お金や人間の問題についての苦しみは、みな自分の心が見ている世界、物質世界を唯一絶対と考えて、こだわっているから生じるのだ」と言っているのです。
 そしてさらに、三界唯一心の思想は唯識説とは異なることを、

 三界は全界なり、三界はすなはち心といふにあらず

とはっきり述べています。けっして物質的世界の存在を否定しているのではないのです。「あなたが見ている世界は、別の人が見ている世界とは異なり、唯一絶対ではありません。正しいモノゴトの観かたで世界を見ることが大切です」と言っているのです。まさに、釈迦が一代を掛けて達した知恵ですね。

註1そもそも「華厳経」の唯心説自体、唯識説とは異なり 四大種(万物の構成要素とされる、地、水、日、風の四つの元素と、それらによって構成される物質)の存在を認め、それが認識されうるのは心の虚妄分別によると説かれています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です