法華経と宮沢賢治
「法華経」を読み解く上での困難
まず、「法華経」など仏教経典に出てくる「仏」とは、釈迦牟尼仏(釈迦)のことです。しかし、言っていることはまさしく「神」のことです。なぜ釈迦をたんなる尊敬ではなく、文字通り神格化するのか。それは仏教の成り立ちを考えればなりません。仏教では「神」という絶対者の存在を認めません。なぜなら、仏教がそれ以前のインドの宗教であるヴェーダ信仰(神を最高とする)のアンチテーゼ(対立概念)として成立したからです。まさに富永仲基の言う「加上説」ですね。明らかに「神」を指しているのに「神」とは言わず、「釈迦牟尼仏」と言うのには、やはり無理があると筆者は考えます。
「法華経」を読み解くには、しばしば出てくる、「われは無量千百万億阿僧祇劫においてこの得難き阿耨多羅三藐三菩提を修習せり」とか、「六千五百万憶那由他の恒沙河(ガンジス川の砂の粒ほど多い)の諸仏を供養せり」とか、「大通智勝仏の寿命は五百四十万億那由他劫である」とかいう、やたらに大きな数字、やたらに装飾的な言葉に辟易としながらも、がまんして読み進まなければなりません。「法華経」の解説者が、 ・・・大乗経典は物語性に富み、想像力豊かな舞台構成を有し、劇的な展開に満ち、深い人間存在の追及を示す・・・と言って称賛しますが、筆者など、荒唐無稽としか言いようがないハリボテフィクションだと言いたくなります。「法華経」の本質を突き止めるには、砂やゴミの山の中に埋もれれている金の粒を選り出すように精選しなければなりません。
宮澤賢治と法華経
宮沢賢治が熱烈な法華経信者であり、数々のすぐれた作品も「法華経」の精神によって裏打ちされていることはよく知られています。
賢治と「法華経」との出会いは、「宮沢賢治」(宮沢賢治記念会発行)によると「18歳で『漢和対照妙法蓮華経』を読んで体が震えるほどの感動を受け、以後、法華経信仰を深め、鮮烈な生涯を送った」とあります。1919年に盛岡高等農林学校を卒業後、同21年には、田中智学が指導する日蓮主義の在家集団「国柱会」に入会し、熱烈な信者になりました。父親(浄土真宗信者)や、盛岡高等農林以来の親友保阪嘉内を折伏しようとして義絶同然になったり、花巻の街をうちわ太鼓をたたきながら歩き回ったりしたと言います。臨終に当たって父親に「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください。私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と頼み、実行されました。
宮澤賢治がなぜあのように熱狂的に「法華経」を尊んだのかは、賢治の心に聞いてみなければわからず、推定するしかありませんが、「法華経」にはいかなる人にも仏となる素質があり、善人も悪人も最後には仏になれる。あるいは、迷悟・善悪・大小・貴俗などはすべて釈迦(神)が作られたものだから価値の差はない、と説かれているからではないかと思われます。賢治の「法華経」信仰は、あの「雨ニモマケズ」の詩に表れていると思います。
雨ニモマケズ
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アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
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東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
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ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
つまり、「法華経」から、絶対的な他人への奉仕の精神を学び取ったのでしょう。ちなみにこのデクノボウとは、「法華経」にある常不軽菩薩、すなわち、誰に対しても「あなたを尊敬します。あなたは仏ですから」と言った菩薩のこと、(じつは釈迦)と言われています。