法華経と道元(1-3)

法華経と道元(1)

「法華経」と禅
 一般に禅は、「法華経」と同じ初期大乗経典である「般若経典類」から始まり、龍樹(ナーガールジュナ)が「空思想」を確立したことが発展の端緒になっていると言われています。しかし、龍樹の「空思想」は、禅の「空思想」とは異なることを、このブログシリーズですでにお話しました。しかも、よく調べてみますと、禅思想はむしろ「法華経」に強い影響を受けていることがわかります。あとで「法華経と良寛さん」のところでくわしくお話しますが、禅の公案集(語録)として有名な「碧巌録」や「無門関」などの随所に「法華経」の文言が引用されています。禅の正統な実践者である道元や良寛さんが、「法華経」を尊重するのは当然でしょう。

 道元がどれほど「法華経」を尊重していたかは、「正法眼蔵 歸依佛法僧寶巻(註1)」に、
 ・・・法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属(家来)なり・・・とあり、「法華転法華巻」もあることからわかります(「法華転法華巻」については次回お話します。註1)。ただ、筆者には、道元ともあろう人が「法華経これ大王なり」というような大仰な言葉を使っているのは不思議に思います。「法華経がとくに優れている」と言うより、「他の経典が・・・」なのでしょう。

 さらに道元は、自分の死期を悟ったとき、「法華経 如来神力品」の一節、

 ・・・若しくは園の中であっても、若しくは林の中であっても、若しくは樹の下であっても、若しくは僧房であっても、若しくは在家の家であっても、若しくは殿堂であっても、若しくは山や谷や広野であっても、この中に皆、当然、塔を建てて供養するべきである。理由は何故か。当然、知るべきである。その場所は、すなわち道場だからである。諸々の仏がここに於いて真理(原文では阿耨多羅三藐三菩提、のちほどお話します)を悟った境地を得、諸々の仏がそこに於いて仏の教えを説き、諸々の仏がそこに於いて最後の悟り(般涅槃)を得られた(以上、前回ご紹介した加藤康成氏の訳による)・・・
を口ずさみながら、経行(歩きながらの瞑想:筆者)し、最後に庵の柱に「妙法蓮華経庵」と墨書したと言います(「永平開山行状建撕記」より、建撕は永平寺第十四世。有名な話ですが筆者未読)。

 「正法眼蔵」は道元が「法華経」のどの思想に共感したのかは、宮沢賢治の場合と同じように、やはり道元自身に聞いてみなければわかりませんが、筆者の推定では、第一に、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているところでしょう。たとえば「法華経如来寿量品」には、

 ・・・如来は如実に三界の相を、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずることが有ることなく、また、世に在るもの及び滅度する者もなく、実ににも非ず、虚にも非ず、如にも非ず、異にも非ざることを知見して、三界のものの三界を見るが如くではないのである。このような事を、如来は明らかに見て、誤りのあることがない・・・
とあります。
 これこそまさに、主客(我と対象)のない、「空」のモノゴトの見かたです。ただ、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているを直接禅に結びつけるのは早計だと思います。たしかに革新的な思想ですが、道元の解釈は「禅的な解釈」と言った方がいいと思います。

註1それにしても「正法眼蔵」の解釈にはまったく苦労させられます。道元は、簡単なことを、わざとむつかしく書いているように思えます。「法華経」もそうですが、「ゴミ」の部分が多すぎるようなのです。

法華経と道元(2)

  阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:最高の教えの世界)
 「法華経には最高の教え(阿耨多羅三藐三菩提)が説かれている」とくり返えされています。では、「最高の教えの世界」とは何かが当然気になりますよね。しかし、それは明らかにされていないのです。
すなわち「法華経方便品」には、

 ・・・舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ(下線筆者)・・・

最後の下線は、よく知られた漢訳の「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相(ただ最高のレベルに達した者たちがわかる自然の本当の姿)」です。そして「如来寿量品」には、

 ・・・三界に住む者が三界を見るようなことではない・・・

とあります。つまり、「三界(欲界・色界・無色界)を輪廻するお前たち衆生が見る世界とは違う(お前たち衆生にはわからない)」と言っているのです。(以上、加藤康成さん訳)

 まったく、「あれだけ重要な経典だ、重要な経典だと言っておきながら、いい加減にしてくれ」と言いたいですね。それが筆者が最初に読んだとき「???」と思ったところなのです。しかし、道元や良寛さんはちゃんと読み取っているのです。以下、道元の「正法眼蔵」や良寛さんの「法華讃」を参考にして筆者が理解できたところをお話します。結論から言いますと、やはり最高の悟りに達した者が見るこの世の姿と、大衆の見る世界とはまったく違うのです。

 道元と法華経
 「法華経」のエッセンスの(一つ)は、「諸法実相」つまり、「自然のほんとうの姿」を知ることだと言われています。道元はその心を、
峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と 
と詠っています(松本彰男「道元の和歌」中公新書)。そして「正法眼蔵 谿声山色」で、

 ・・・東坡居士蘇軾(そしょく)、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する声をきく(聞く)に悟道す・・・

と中国北宋時代の詩人蘇軾(1037‐1101)が「谿川の水がゴウゴウと流れている音を聞いて悟った」有名な逸話を紹介しています。つまり道元は、「私たちが見た山の姿や渓流の音、そのままが、釈迦が説いた自然のほんとうの姿だ」と言っているのです。また「山水経」でも、

 ・・・而今の山水は古仏の道現成なり(今ここで見ている山の姿は、これまでに最高の悟りに達した人たちが見た山のほんとうの姿が現れている)・・・

と言っています。
ただし、その山の姿や渓流の音は、最高の悟りに達した者と、大衆が見たものとはまったく違うのです。そこを読み解かなければなりません。
「正法眼蔵 山水経」に雲門文偃(うんもんぶんえん864‐949)の言葉を引用した個所があります。

・・・古佛云、山是山水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり・・・

つまり雲門文偃は、「私が悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えなかった。(悟りに達すると)山は山でなく、水も水でなくなってしまった。そして、さらに修行が深まると、また山が山として、水が水として新鮮に蘇ってくる」と言うのです。

法華経と道元(3)

「法華」とは宇宙の真理だとお話しました。「法華経 方便品」には、
・・・十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三・・・
とあります。つまり、「自然はただ一つの法則(一乗法)によって支配されており、二もなく三もない」と言うのです。道元の「正法眼蔵 法華転法華」には、禅の六祖慧能(638‐713)の偈

・・・心迷へば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず。誦すること久しけれども己を明らめずんば、義のために讐家と作る。無念の念は即ち正なり、有念の念は邪と成る。有無倶(とも)に計せざれば、長(とこしなえ)に白牛車(最高の教えに至るための乗物)に御す・・・

から引用したものです。つまり、

 ・・・(苦しいこと、悲しいことが起こっている状況も宇宙真理の現われである。一方、楽しいこと、嬉しいことの起こっている状況も宇宙真理の現われてある。)したがって、苦しいこと、悲しいことで心が惑わされるのは、宇宙の真理を正しく受け取っていないからであり、楽しいこと、嬉しいことで有頂天になるのも同様である。それぞれの状況を、あれこれ考えずにそのまま受け取ることが肝要だ(下線筆者)・・・

と言うのです。「あるものをあるがままにあると認める」‐これこそ「法華経」の真髄なのです。
 道元はまた、

 ・・・すでに十方仏土と転法華す、一微塵のいるべきところなし。色即是空の転法華あり、若退若出にあらず。空即是色の転法華あり、無有生死なるべし。在世といふべきにあらず、滅度のみにあらんや・・・

と言っています。つまり、

 ・・・全世界、すなわち自然は法華として(宇宙真理のままに)現われている、それ以外に塵一つ入る余地は無い。色がそのまま空であるという法華の転回がある。出現したり、消滅したりするのではない。空がそのまま色である法華の転回がある。生も死もない。よって世にあると言うべきではなく、去来のみが真実である・・・

と言うのです(太字の部分はとても大切ですから後で改めてお話します)。そして、「色がそのまま空であり、空がそのまま色である姿を正しく見る眼が悟りの眼」なのです。では、どうしたらそうなれるのか・・・。「法華経」に基づく道元の悟りの眼、つまり自然観は、

  峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
 (山の姿、谷川の響き、それがそのまま最高の悟りなのだ)

だと言われています。「そうは言われても」というのが大衆の正直な気持ちでしょう。しかし、最高の悟りに達した者が見た自然と、大衆が見たものとはまったく違うのです。「その差を理解するには、
 ・・・色即是空の転法華あり、空即是色の転法華あり・・・
の真意を自分のものにすることだ」と道元は言っているのです。

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