新島襄と神の啓示(1,2)

新島襄と神の啓示(1)(以下は「わが若き日」新島襄 毎日ワンズ(原文は英文)による)

 新島襄(1843-1890)は上州安中藩板倉氏3万石の江戸屋敷で生まれる。本名は七五三太(しめた)後に敬幹。密航してアメリカ行きの船長から、七五三太は呼びにくいからとJoe(ジョー)と呼ばれ、そのまま襄と名乗ったという。父は神官だったが、後年安中藩に仕えた。ただし禄高は五石(手取りは6両‐現在の貨幣価値で60万円)と最下級の武士だった。

 新島をキリスト教への眼を開かせてくれたのは、最初は友人の家で見付けた漢訳聖書(註1)で、のちに出会った蘭学の師杉田廉卿(れんけい、杉田玄白の子孫)から大きな影響を受けたようです(「宗教心の厚い人で、「解剖学を極めてゆくうちについに神を認め、しかもこれを奉じるにはキリスト教しかないと信じるに至った(青山学院創立者津田仙の回想記から)」。新島は剣にも優れ、藩主の護衛役にも選ばれた。あるとき藩主に供奉して江戸から安中まで行ったとき、藩主は駕籠に乗り、自分たちは徒歩で従うことに疑問を抱き、「なぜそのような隷属を強いられなければならないのか」と思ったという。このことからも、新島はほとんど天性のようにリベラルな思想の持ち主だったようです。その思いが脱藩、密出国という当時としては大罪を犯してまでして自由の国アメリカへ渡ったのでしょう。

註1 もちろん当時はキリスト教は厳禁でした。ただし、すでに日米和親条約は締結され、下田(後に横浜)と函館2港は開港されていました。そしてそれぞれの都市にはキリスト教司祭も来ていました。漢訳聖書は、アメリカ人宣教師が、聖書の重要な部分を漢字でまとめたもののようです。

新島の言葉:
・・・自問自答した。私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである。私は神に感謝し、神を信じ、神のために誠心を尽くさなければならない」「俺はもう両親のものではない、神のものだ」と叫んだ。その瞬間、父の家に私を縛りつけていた鎖はバラバラになったのです・・・この新しい考えに勇気づけられた私は、藩主を見捨て、家や祖国を一時去ろうと決心したのです・・・
 のちに新島は江戸に設立されたばかりの海軍学校に入り、本家備中松山藩の帆船で岡山まで航海した。その縁で22歳のとき密かに脱藩し、まず同船に便乗させてもらい、函館へ行った。そこで多くの人たちの助力を得て、アメリカ船ベルリン号で上海へ行き、アメリカ船ワイルド・ローヴァー号に乗り換えてアメリカに渡った。船賃の代わりに、船長室で無給の雑用係をしたという。

 新島の言葉:
 アメリカ行きの船中でイギリス人の男が親切に英語を教えてくれたが、ある時命じられていることが理解できないでいると、男は私をいきなり殴り付けました。私は我慢できず、無礼打ちにしてやるつもりで刀を取りに自室へ駆け下り、刀をつかんで部屋を飛び出そうとしたそのとき、どこからともなく「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」という声が聞こえきたのです。そこで、ベッドに腰を掛け、独りこう言った。「これは些細な出来事なのだ。これから僕はもっと辛い目に遭うであろう。これくらいのことが我慢できなくてどうして大いなる試練に立ち向かうことができようぞ」私は自分の短気を恥じて「いかなる場合でも二度と刀にてをかけてはならぬ」と肝に銘じたのです・・・
 4か月かかってボストンに着くと、ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学することができた。そして1866年アンドーヴァー神学校付き属教会で洗礼を受けた。その後アマースト大学を卒業(理学士)。当初、密航者として渡米した新島であったが、初代駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
 卒業後、新島はキリスト教海外伝道組織から日本での宣教に従事する意思の有無を問われると即座にそれを受託し、「日本伝道通信員」となった。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付を得た。10年後の明治8年(1975)に帰国し、3年後には安中教会を設立。同年、同志社大学の前身同志社英学校、および同志社女学校(のちに同志社女子大学)を設立した。以下の新島の活動はご承知のとおりです。

新島襄と神の啓示(2)

 新島が、不完全な漢訳聖書を読んだり、蘭学師杉田廉卿から影響を受けたとはいえ、脱藩、密航という思い切った手段を取ってまでアメリカへ行こうと決断したのは、不思議とさえ思えます。漢訳聖書を読んだ人や、杉田の弟子はいくらもいたでしょうから。
 新島はわずか14歳のとき、藩主の愛妾が政治に介入し、新島の恩師を讒言によって更迭するなどしたことを知って憤激し、その妾の暗殺を企てたと言います。その意図を別の信頼する先生に相談したところ、「累はお前の一家親類の迷惑になるから」と懇々と諭され、思い留まったと言います。純粋で正義漢も人並み外れていたのでしょう。
新島の言葉:
 ・・・私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである・・・
は素朴ではありますが、筆者もまったく同感なのです。以前お話したように、生命は、そして宇宙も神が造られたとしか思えません。理由はすでに書きました。ビッグバンは、空間も時間もないところで突然起こったのです。素粒子は17個あり、その質量や性質はこれからどんどん解析されてゆくでしょう。しかし、なぜそれらが17個なのか、どうしてそれぞれがそれぞれの資質を持っているのかは、いくら科学が進歩しても永遠にわからないのです。神の御業としか思えないのです。

 アメリカ行きの船中で、無礼な仕打ちをしたイギリス人を切り殺そうとしたとき聞いた、「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」言葉は、神からのメッセージだったような気がします。もし実行していたら、その後A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学し、つづいてアマースト大学を卒業できたことも、日本伝道通信使となったことも、同志社大学などの設立も一切なかったはずです。やはり「神の啓示」と言うのがふさわしいでしょう。

 恐らく新島は「見えざる手に導かれた人」人生だったのでしょう。
 筆者は以前、浜松の聖隷クリストファー大学看護学部の前身の短期大学で非常勤講師をしたことがあります。その時、ふと目にしたパンフレットを読んで衝撃を受けました。現在の聖隷福祉事業団の前身は、末期の結核患者を受け入れるための施設で、当時忌まわしい病気として「私にはどこにも居場所がない」と嘆く患者たちを世話していました。創立者長谷川保さん夫妻とスタッフはキリスト教精神に則った、筆者には到底まねのできない尊い奉仕活動をしたのです。亡くなった患者の寝巻を洗って自分たちの衣服とし、食事は患者の残りをオジヤにする・・・。
 そのパンフレットには「神が造り給うたものには一切無駄がない」と書いてあったのです。

 ただ気になるのは明治の初めのキリスト教信者は約30万人、100年後の今もほとんど増えていないことです。現在ではむしろ、キリスト者の高齢化と相俟って、信者が減っているとか。残念なことです。理由はいろいろあるでしょう。しかし筆者には、キリスト教があまりにも聖書に依存し過ぎているていることも問題の一つのように思われます。仏教が釈迦の死後、初期仏教から大乗仏教へと増広を積み重ねていることときわめて対照的です。キリスト者は何かにつけて「マタイ伝第〇章第〇節」とか、「旧訳聖書詩編△編△節」という言葉を口にします。確かに人生を決めるすばらしい言葉が多いのですが、逆に言えば教義が硬直化しているように思われます。もう一つの問題は、キリスト者同士の結び付きが強く、外部の人が入りにくい組織のようにも思えるのです。筆者は、キリスト教信者ではないのですが、長い苦しみの人生からキリスト教精神を、恐らく信者以上に自分のものにしている人を知っています。キリスト教系の雑誌もいろいろありますが、そういう人たちにも門戸を開き、考えを述べてもらうなど、組織のスクラップビルドが必要な時ではないでしょうか。

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