読者からのご質問(2‐1)
この読者から、続けて下記のご質問をいただきました。①-⑤すべてほぼ同じ趣旨ですからまとめてお話します。どれも誠実な内容で、的確だと思います。よく勉強もしておられます。他の読者のご参考にもなると思いますので、紹介させていただきます。なお、前にも同じ方からご質問をいただき、以前のブログで筆者の考えをお話してあります。参考にして下さい。長くなりますので二回に分けてお話します。
ご質問1「(公案の)庭前の拍樹子」について:「(神名龍子の考えをここで当てはめると)「自分と柏樹はそれぞれ、出会うことにより同時に現れる。自分は柏樹と出会うことにより現れる。その自分とは、万物同根のそれである。柏樹に出会ってはじめて自分はある。「主体としての私=実体としての私」を抜きにした「無我の私」となる」となろうかと思います。中野さんの「柏樹は私が見て(体験して)はじめて現れる(現成する)」と似通っているように思われます。柏樹はあらゆるものの一例でしょう。神名龍子と中野さんとの違いは、一つあげれば、神名は柏樹と自分は同時に現れるとしていますが、中野さんは柏樹が現れるとしています。この差をどう取ればよいのでしょうか。
お答え:神名さんの著書は読んではいませんが、この点については、おそらく筆者の考えと同じでしょう。「柏樹が現れる時に私も現われる」です。強調点の違いです。禅で言う「体験」にも、もちろん「私」はあります。正確に言いますと体験の主観的側面が「私」で、客観的側面が「対象物(モノ)」なのです。禅では「私が悟れば自然も悟る」と言います。つまり、私と自然(対象物(モノ))は本来、対立するものではないのです。
ご質問2:中野さんは「「私がモノを見るという一瞬の体験こそ真相だ」というモノゴトの観かたです。一瞬の体験には一切の判断はありません。」、「・・・見る(聞く・・・)という、今、ここの一瞬の体験にこそモノゴトの真実が現れるのです。過去は消えた、未来もない。あるのは今この一瞬だけなのです。「生き方」の問題などではなく、事実そのものを言っているのです」、「「体験(現象)が起こるのは、今ここでの一瞬であり、ものごとはその時だけ現われる」、だから「生とは、一瞬一瞬の「今ここ」の生(なま)の体験の連続」であるとおっしゃられています。「禅は無我の実現がねらいなのです」(長泉寺矢口住職「丙丁童子来求火」のお話)とすると、中野さんお説では、びっくりしたときや、いきなりや、荘厳さに打たれて我を忘れたときや、鼻をつねられた〔百丈)ときばかりではなく、生きている人は凡夫であれ、禅僧であれ、いつでもつねに、無我(みる主体が消える)が実現し、悟りに至るところにいるのだ、ということになりませんか。それとも「モノゴトのみかたには、「見かた」と「観かた」の二つがあり、「見たモノと観たモノを一如とする」ことが、モノゴトの真実の姿を知るために必要だと言うのです。」が理解できてないからでしょうか。
お答え:矢口さん(存じ上げませんが)のおっしゃる「生きている人は凡夫であれ、禅僧であれ、いつでもつねに、無我(みる主体が消える)が実現し、悟りに至るところにいるのだ」は誤りです。凡夫(そう言う表現の是非はさておき)や、未熟の禅僧は稀に「無我」の状態になるのです。ふだんは「見ている」のですね。すぐれた芸術家や科学者は「無我」の状態になる機会が多く、「観ている」のです。悟りに至った禅僧はいつでも「無我」の状態になれるとお考え下さい。
さらに、長泉寺矢口さんのおっしゃっている「禅は無我の実現がねらいなのです」は正しくありません。禅では「自我(自己)」も否定しません。「見たモノと観たモノを一如とする」ために必要だからです。すぐれた禅僧はそれらを自在に一如にすることが出来ます。
ご質問3 中野さんは「 「空思想」とは、「私がいてモノを見る」という、これまでのモノの見かたとは異なり、「私がモノを見るという体験こそが真実だ」とくり返しお話してきました。「モノを見る」という体験は一瞬です。良いとか悪いとか、きれいだとか汚いという価値の判断は入り込む余地はありません。まずここが大切な点です。そして、体験は一瞬ですから、「限りなくゼロに近い一瞬の連続が人生だ」とも言います。」と書いておられました。
まず、中野さんのおっしゃる「体験」とは何を指すのでしょうか。次に、誰にとっても、体験は一瞬であり、その一瞬の連続が人生ならば、凡夫にも未熟な禅僧にも、その人生は一瞬の体験の連続ですから、つまり、『私」の入る余地はなく無我の体験の連続ということになりませんか。ところが私〔凡夫〕の人生はと言えば、妄想の連続です。思いや考え事や価値判断の連続といってもいいほどです。この二つの事柄は、矛盾ではありませんか。私の人生は、一瞬の体験の連続ではないのですか。
お答え:まず、「体験」とは、「見た体験」、「聞いた体験」・・・です。「凡夫」(あなたにとって適切な表現かどうかは別でしょうが、便宜上ここでも使わせていただきます)は、「体験」するとすかさず判断(あなたのおっしゃる妄想)を入れてしまいます。つまり、凡夫の「一瞬」の体験は一瞬ではなく二段階です。すぐれた禅僧は、妄想へ行く前に「体験」のままで止めてしまうのです。「純粋な体験」「体験そのもの」なのです。そこが凡夫の「体験」とすぐれた禅僧の「体験」との違いです。それゆえ、「純粋体験」における「私」は、凡夫の「私」とは違うのです。「純粋体験」における「私」は、筆者の言う「本当の我(私)」なのです。禅僧が人生を掛けて修行するのは、「本当の我(私)」を引き出し、その眼でモノゴトを観るためです。
読者からのご質問(2-2)
ご質問4 私が「意」にこだわるのは、たとえば、井上貫道さんは、「坐禅は眠ったら坐禅にならぬ」とおっしゃるように、自分を見極めようとするには、眠っていない「意」が必要ですが、無我の状態に入ったとき、その「意」とは何を〔意識だけでは答えになりません〕さすのか、よく分からないからです。また、スマナサーラさんは、『刺激論』で「眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れた瞬間、たとえば眼に色形が入った瞬間、妄想を展開させずに、「見えた」と、そこでストップしたらどうなるでしょうか? 何の妄想も、何の主観も、何の煩悩も生まれてこないのです。それで心がすごく穏やかになるのです。悟った人は、ここでストップします。妄想には行きません。悟った人に煩悩が無いというのは、眼が見えないとか耳が聞こえないとか、何も感じないということとはまったく違います。悟った人は常に目覚めて、ものごとを鋭く観察していますから、誰よりも鋭く聞こえていますし、鋭く見えています。ただ妄想には行かないのです。」と言っていますが、六根に入っている「意」、「つねに目覚めている」意識、妄想に行かない「意」とは何か、何がどういう働きをしているのか、どういう状態なのか、いまいちよく分からないからです。スマナサーラさんの「意門」論も読みましたが、私の疑問は払拭されませんでした。つまり、無我の「意」って何だろう、という疑問です〔無我といえども、「意」が無くなることはないのではないでしょうか)。
中野さんの「意」論をお聞かせ下さいませんか。無我の意は「法」をどのように”味わう”のでしょうか。
お答え:まず、A・スマラサーナさんはテーラワーダ仏教の長老ですね。日本語がお上手です。スマラサーナさんの考えは、たぶん私の考えと基本的には同じでしょう。ご質問(3)でもお答えしましたように、「つねに目覚めている意識、妄想に行かない意識」とは、「本当の我」の意識です。それは自己意識(顕在意識)とは異なり、その奥にある意識とお考え下さい。「体験」を妄想に行かせずに止めると、自己意識(顕在意識)と「本当の我」の意識が重なるのです。そうするとモノゴトが正しく観えるのです。「本当の我」の意識は神の意識、仏教で言う阿弥陀如来の意識です。「本当の我」の意識(あなたのおっしゃっている「無我の意)は法そのものを味わうことが出来ます。と言うより「法」そのものです。「本当の我」の意識に従って生きる・・・、それが悟りの世界です。そして悟りの世界は苦しみや悲しみを乗り越えた平安の世界です。
ご質問5『見たもの」とは、自己意識による認識でしょう。では、無我になれば、何がどのようにものごとを認識しているのでしょうか。それとも、認識していない? 認識していなければ、一如〔同じではないが、別ものでもない、一つの如し)もないのではありませんか。また、「観たもの」とは、何が何をどのように「観る」のでしょうか。またまた、「観る」とはどういう状態を指すのでしょうか。ご教示を是非賜りたく存じます。
以上、私には自己意識のからをかぶった自分と無我の自分の二重構造で、禅は修行により、この自己意識の殻を脱ぎ捨てる蝉の脱皮のようにも感じられます。私の疑問はこの4つに集約されそうです。他にお尋ねできそうな人がおりません。中野さんには誠にご迷惑でしょうが、ご教示賜りますれば、幸甚に存じます。よろしくお願い申し上げます。
お答え:少しも迷惑ではありません。あなたは無我を正しく理解されてないのでは?無我とは、「我がない」ではなく、「自我(自己)意識」はないが「本当の我(あなたのおっしゃる無我の自分?)」はあるのです。無我になれば「本当の我」がモノゴトを認識しています。ご質問(4)でもお答えしましたが、「本当の我」の意識は自我(自己)意識とは異なり、その奥にある意識です。「体験」を妄想に行かせずに止めると、自我(自己)意識と「本当の我」の意識が重なるのです。あなたのおっしゃる「自己意識の殻をかぶった自分と無我の自分の二重構造で、禅は修行により、この自己意識の殻を脱ぎ捨てる蝉の脱皮」は正しいと思います。
一方、さらい重要なことは、禅では自我(自己)意識で認識したモノゴトと「本当の我」の意識が認識したモノゴトを「一如として観る」と言います。とても大切なことですから、このブログで追々お話して行きます。がんばってフォローして行ってください。
初めて読者の方とキャッチボールが出来たような気がして筆者も嬉しく思います。
以上、筆者もあなたも禅のモノゴトの観かたを言葉で表現しています。それがわかっても頭で理解することであり、「体得」することとは別です。あなたのおっしゃるように、それを「体得」するには修行が必要です。筆者は毎日修行を欠かしません。
お久しぶりです。よろしくお願い致します。
「一如とする」についてお尋ねします。
中野さんはこうおっしゃられています。
「禅は無我の実現がねらいなのです」は正しくありません。禅では「自我(自己)」も否定しません。「見たモノと観たモノを一如とする」ために必要だからです。すぐれた禅僧はそれらを自在に一如にすることが出来ます」と。
この「見たモノと観たモノを一如とする」とするとということは、
質問①「一如とする」とは、「モノを見ているのは「私」で、観ているのは本当の我なのです。本当の我は神(宇宙意識)につながっています。ですから本当の我が観ているモノこそ、神の眼で観ているモノの真の姿だと、筆者は考えているのです」とございましたが、具体的にどうすることでしょうか。「一体化する(一つになる)」「一致する(二つが重なり合う)」とどう違いますか。神の眼で観ているのなら、一如にする必要もないのでは・・・・・・
質問②「一如」となったあと、モノはどのように見えているのでしょうか。
禅問答に「馬祖野鴨子」があります。これを、馬祖と百丈を入れ替えたらどうなりましょうか。
私の答えの一例
百丈「あれはなんでしょう」
馬祖「野鴨が見えるな」
百丈「どこへ行ったのでしょうか」
馬祖「空が見えるな」
質問③ この私の答えは妥当でしょうか。中野さんのおっしゃる、判断(思慮分別、価値判断、感想)を入れぬ前の「事実」に即してみましたが・・・・
「一如にする」に叶っているでしょうか。
以上よろしくお願い申し上げます。
再度お尋ねいたしたく存じます。
中野さんは、「祖師西来の意」は「空」というモノゴトのみかたを伝えに来たのだと、おっしゃられています。つまり通常の「見方」と禅の「観方」の違いです。その「観方」は六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)とが出会うとき、つまり経験(体験)ですが、その経験(体験)のみに止めて、そこに妄想(思慮分別、価値判断、感想)をさしはさまないときの経験(体験)を、「観方」という言葉で表されておられます。凡夫と修行を積んだ禅僧との違いも、この妄想のさしはさみをストップできるかどうかにかかっていると。
そこでお尋ねしたいのですが、六根の内の「意」と六境の内の「法」との出会いですが、これは具体的にはどういう経験(体験)なのでしょうか。妄想(思慮分別、価値判断、感想)をさしはさまないということは、「意」は、思慮分別、価値判断、感想ではない、何か、言うなれば〈精神的〉な働きですね。それはどんなものでしょうか。統覚とか、悟性あるいは、意志?意識?といったものでしょうか。また「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか。
どうも、この「意」や「法」が禅を理解する上での躓きの石となっております。「意」には、思慮分別、価値判断、感想の働きもあるのではないか、とつい考えてしまいます。「意」にはそういう働きはないとすれば、この思慮分別、価値判断、感想はどこで行われているのでしょうか。あるいは、「意」にはそういう働きもあるが、ストップもできるのだということでしょうか。「法」についても、「仏道」と「仏法」とはどう違うのか、といったものです。
中野さんがときに引用されます、師匠につかずに悟ったというあの方も、「法」に悖るかどうかで、その禅僧が悟っているかどうか一発で分かるとか・・・・
以上くだくだしく述べてきましたが、どこで迷っているのか、ご教示いただけますならば、幸甚に存じます。よろしくお願い申し上げます。
いつも適切なご質問で、よく勉強していらっしゃると思います。他の読者の方にも参考になると思いますので、あらためてブログの「読者のコメント」として感想を述べさせていただきます。
「意」を各自の思考機能、「法」を各自の思考内容と考えれば、「意」と「法」で思考経験と言えると思います。つまり、思慮分別・価値判断・感想・反省・記憶などです。無念・無心・無分別・戯論寂滅・能所倶絶・身心脱落・見性などの経験も「意」と「法」がもたらすと思います。
雲居普智禪師は「能所倶絶、名づけて見性と爲す」と言っています。「能」は「意」、「所」は「法」ですから、「意法倶絶を名づけて見性と為す」と言い換えることができると思います。
最も身近な客観である「法」は「身」であり、「意」は「心」の機能ですから「身心脱落」と「能所倶絶」は全く同じ体験だと思います。
「能所倶絶とは意識とその対象(岩村さんによる思考内容)をともに捨てる」。つまり、おっしゃるように、無念・無心・無分別・戯論寂滅・能所倶絶・身心脱落・見性ですね。一方、「空」とは、身心脱落つまり、主観と客観の区別が無くなる状態です。したがって、能所倶絶は「空」思想の別の表現だと思います。