悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(1-3)

悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(1)

 キリスト教学の大前提は「神は人間とは隔絶した存在である」ですね。その大前提に異説を唱えたのが、マイスター・エックハルト(オーストリアの神学者、1260?-1320?)です(以下は「神の慰めの書」相原信作訳(講談社学術文庫)から)。

 エックハルトは、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない状態となり、名前無き無なることを理解するであろう(下線筆者)・・・

と言いました。下線で示しましたように、エックハルトは「人間は神と一体化せよ」と言っているのです。この考えは、当時の(現在も)キリスト教学「神は絶対であり、人間世界と隔絶した存在である」とは、まったく反するものです。さらにエックハルトは、イエスや聖職者のような、神との仲立ちをする存在をも否定しています。そのため、とうぜん異端者とされ、キリスト教会から厳しく糾弾されました。エックハルトはそれらの批判に対する弁明書を提出していたのですが、宗教裁判に掛けられる前に病死しました。しかし、筆者はエックハルトの言うとおりだと考えています。

 さらにエックハルトは、

 ・・・被造物における善き者などもそれ自体が善いというよりも、善性がそれを生み出したから善いと言える。つまり、神は善性だから、神から生み出された被創造物は善き者だということ。神は知性を持っているので、神が生み出したからこそ被創造物は、知性を持つことができる。被造物にできる最高のこととして、魂の神と一致を試みることだ。魂とは、無に徹することだ。被創造物である人間は、神でないものすべてを打ち捨てて、神への譲歩で行かなければならない・・・

 つまり、人間が持っている良心や愛や知性は、人間が後天的に獲得したものではなく、神の属性をそのまま表現していると言うのです。眼が覚めるような言葉ですね。母親のわが子に対する愛や、良心や善性は時代を超え、人種を越えて持っていますね。考えてみれば、それらを人間がなぜ持っているのか不思議です。その理由は「神から与えられものだから」というエックハルトの考えには得心されます。

 エックハルトが伝統的キリスト教学に真っ向から対立するこの思想にどうしてたどり着いたのかはよくわかりませんが、おそらく深い瞑想によってわかったのでしょう。

悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(2)

 さらに、エックハルトは、

 ・・・原初における無の状態では、神は安らぐことはない。なぜなら、神はロゴス(言葉、概念:筆者)であり(註2)、その言葉によって、被創造物(たとえば人間)が創造された。神は論理とか真理を最初に創造した。そして、ロゴスによって被造物が創造されることによって初めて神は被造物において自分自身を存在として認識した・・・

と言っています。無の状態では、神は安らぐことはないとは、「無の状態では神ご自身がその絶対性を認識できない」という意味だと思います。そして、神は被造物において自分自身を存在として認識したとは、人間のような神以外のものを創造して初めてそれが可能になられたと言うのです。そして人間が生きる目的とは、この世で生きている間に自らが不完全であることに気付き、神に近づくための修行の場であると言うのです。人生の目的を示した重要な考えですね。この考えは、スピリチュアリズムの世界でもよく言われています(註3)。

註2「ヨハネによる福音書」1:1には、
・・・はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった・・・
とあります。
註3 心霊主義とも。霊媒(高級霊との通信の仲立ちをする超能力者)を通して、あの世の高級霊団から伝えられた情報を研究する。数々の霊界通信によって、死後の世界や、生まれ変わり現象などの様子が知られるようになりました。「モーゼスの霊訓」や「シルバーバーチの霊訓」がよく知られています。

エックハルトの言う神がまだ存在しない状態について

筆者のコメント:宇宙の始まる以前、神以外の物は一切無かった。論理学的には、「ある」という概念は、「ない」との比較において「ある」はずです。それゆえ、神のみがいらっしゃる世界には何もなかったのです。さらに、「ある」と言うには「場所」が必要です。それゆえ、神の世界は空間のない無の世界なのです。それを理解するにはビッグバンを考えればわかりやすいと思います。138億年前、突然ビッグバンが起こり、宇宙が始まったことはよく知られています。「では、ビッグバンはどこで起こったのか」と考えてはいけません。「宇宙」などは無かったのですからビッグバンの起こった場所などありえないのです。「では、ビッグバンの起こる以前にも、別の宇宙があったのか」と考えてもいけません。現時点から138億年さかのぼるとビッグバンに行き着きますが、近付けば近付くほど時間の進みは遅くなるのです。そしてビッグバンの直前に時間が止まる。つまり、ビッグバンの起こる以前には時間も空間もないのです。まさしく神の世界には時間も空間もないのです。

悟りとはいかなる状態か(3)

 禅や真言密教の阿字観瞑想や虚空蔵求聞持法の修行者(註4)ならだれでも憧れる「悟り」とはどういうものでしょうか。「すべての苦から解放された安心立命の状態」では抽象的でピンと来ませんね。さらに、「悟りが大切だ。大切だ」と言われても、「ではそれはどういう状態か」との疑問に答えてくれる宗門はないでしょう。裏を返せば、悟りに至った人がこれまで、とくに近年にはほとんどいなかったのでしょう。

 筆者は、人間が「本当の我」を通して神と一体化できた状態だと思います。まさに前述のマイスター・エックハルトの言っている、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる・・・

と同じ考え方だと思います。瞑想によって精神を安定化させ、自我意識を低める修行を続ければやがてそう言い状態に達すると思います。以前このブログシリーズで、筆者のこういう考えに対し、ある人から「そういう考えはすでに一闡提として否定されている」との投稿がありました。そもそもその人は「一闡提(いっせんだい)」の意味を誤解していますが、とにかく筆者の考えを否定したかったのでしょう。筆者は、以前からお話していますように、これまでに禅だけでなく、神道のいわゆる霊能開発修行を10年間行いました。その経験からも上記のように考えているのです。

註4 禅宗や真言宗以外に華厳宗でもまさに「神との一体化」を修行の目標としていると筆者は考えます。これに対し、他力を基本的教義とする浄土宗、浄土真宗には、原理的にも「神との一体化」という概念はありません。

悟りの証拠‐奇跡

 禅の世界では、悟ってもいないのに「悟った」と思い込むことを厳しく戒めています。道元の「正法眼蔵・一顆明珠巻」に「黒山の鬼窟(鬼のすみか)」として出てくる迷いの世界です(註5)。悟ったかどうかははっきりした証拠があるのです。

註5 ただし道元は、それを否定的な意味には取らず、「黒山の鬼のすみかでの一進一退の迷いの生活が一顆の明珠(一点の曇りもない珠:真実の世界)の働きそのものだ」と言っています。

 さて本題にもどり悟りの証拠とはどんなものでしょうか。例を挙げてお話します。

 高野山の奥深く、特別な修行のためのお堂があります。限られた人が「虚空蔵求聞持法」を実践する場です。虚空蔵求聞持法とは、あの空海が土佐の室戸岬にある御厨人窟 (みくろど)で悟りを開いた時に唱えた真言

 ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリキャマリ ボリソワカ(註6)

を1日1万回づつ100日(または2万回づつ50日)唱えるという過酷な修行です。修行が成功すると奇跡が起こると言います。起こらなければ、修行をまたやり直さなければなりません。上記の高野山のそのお堂には、奇跡が起こった人のお礼の札が飾ってありますが、ごくわずかです。

註6 異説もあります

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