禅と科学(1)
禅では分別ということを嫌います。分別、すなわち論理的あるいは分析的なモノゴトの見かたに対し、直観的にモノゴトの真実に迫れと言うのです。よくお話するように、「空」とは一瞬の体験です。そこには判断や分別は一切入りません。
「科学とは論理です」と学生たちによく話ました。本当は科学とは感性なのですが、約束事として必要なのです。よく、ただ怒りに任せて理屈を言う人がいますね。しかし、それでは相手に自分の怒りの理由を納得させることはできません。やっぱり、自分と意見の違う人を説得するには、約束事としての話の論理建てが必要でしょう。それと同じです。論理的でない研究成果の発表など、わかってもらえるはずがありません。
このブログシリーズで、「踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです」、「吉村昭さんや津村節子さんの信仰(?)」、「龍樹の『中論』」、飯田史彦さんの「退行催眠による前世療法」などの著作についての疑問をお話しましたした。どれも原文はそのまま読めば良い文章で、感動的でもあります。しかし「なにかおかしい」のです。
たとえば、飯田さんの「生きがいの創造」シリーズがベストセラーになったのでお読みになった人も多いでしょう。以前、あるキリスト教の牧師さんからメールをいただきました。「信者さんの中に『飯田氏の著書に感銘を受けた』と言う人がいます。どうも納得できないのでネットで調べたところ、中野禅塾のブログを読み、その危険性がよくわかりました」とありました。その後、信者ご自身からも感謝のメールをいただきました。
飯田さんは元福島大学教授。経営学の専門家とか。著書はとても説得力があります。そのため熱心な愛読者ができたのでしょう。しかし筆者はその「論理性」に強い疑問を感じました。そこで、彼の著書をいろいろ読み、ますます疑問が大きくなったので疑問を呈したのです。飯田さんは、人事管理論が専門だったそうで、人を説得する話の論理立てがじつに巧みです。しかし、かえって筆者はその中にうさん臭さを強く感じました(註1)。
あのオウム真理教事件が話題になった時、その異常さばかりでなく、東大出身の医者や弁護士など、多くの若いエリートが加わっていたことも衝撃的でした。たまたま聞いたNHKの深夜放送「新聞を読んで」で、ある人が、「信仰というものをもちろん信じます。神秘現象というのもあるでしょう。しかし、それらを理性で判断することもとても大切です」と言っていました。その通りと思います。いくら言葉巧みに宣教しようと、いくら高名な大学教授が推薦しようと(註2)、その裏を読み取らなければならないのです。
科学は論理ですから、ちゃんとした科学者ならだれでもその危うさ見抜けるはずです。論理は感性なのです。「なんかおかしい」と、感じるのです。たしかに分別や分析には危険が伴います。しかし、分別や分析も捨てたものではないのです。これを禅では肯定即否定・否定即肯定と言います。つまり、禅ではどちらか一方に固定されるのを嫌うのです。
註1 飯田さんの現在のHPを見ますと、「ようやく念願かなって新天地に移りました」とありました。現在は「音楽療法」を行い、自分も演奏しているとか。筆者はそれらの論理立ても信じません。福島大学からの退職を余儀なくされたのだと思います。当然でしょう。
註2 オーム真理教を高く評価した某氏は、けっきょく大学を辞職せざるを得ませんでした。宗教学者でありながらオーム真理教のうさん臭さを見抜けなかったですから。
中野様、お久しぶりです。この文はコメントではなく、私信として扱って、この「中野禅塾」に載せないでいただければと思います。中野様はオウムについて2度ほど論じられています。いろいろな視点があると思います。長谷川和宏「オウムの物真似」という文が『全作家』114号(2019年)に載っております。よろしければご覧下さいますよう。さしでがましく申し訳ございません。
凡愚様
残念ながら図書館を通じて借りることはできませんでした。