三たび五蘊について‐中村元博士の解釈
中村元博士は東京大学名誉教授。筆者のこのブログシリーズでも何度もご紹介していますが、恐らく二度と表れないほどのすぐれたインド哲学者だと思います。インド古代哲学のウパニシャッド哲学から、初期仏教経典(パーリ仏典)、さらに大乗経典類と、サンスクリット語、チベット語、漢語をわがものとして仏教を縦の流れ、そして幅広く研究された碩学です。
しかし、それでも中村博士は五蘊という、仏教における重要な概念を間違えていると思います。以前のブログ「そもそも五蘊の解釈がまちがっているのだ」でお話したように、まず、中村博士は著書「般若心経・金剛般若経(岩波文庫)」で、
「般若心経」の冒頭、
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(観自在菩薩が深遠な知恵を完成するための実践をされている時、五蘊がすべて「空」であることがわかった)の五蘊を、
・・・存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれ(観世音菩薩)は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものを見とおしたのであった・・・
と解釈しています。すなわち、五蘊をモノすべてに当てはめています。
ところが、同博士は「龍樹」(講談社学術文庫p294)では、「中論」第二十五章・第九詩について、
・・・もしも{五蘊}(個人的存在を構成する五種の要素:中村博士の説明)を取って、あるいは{因縁}に縁(よ)って生じ往来する状態が、縁らず取らざるときは、これをニルバーナ(涅槃、最高の悟り:筆者)であると説かれる・・・
と解説しています。つまり、今度は五蘊を人間の構成要素としています(註1)。こんどは人間になっているのです。
五蘊について試しにネットで調べてみますと、
色蘊-人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった(註2)。
受蘊-感受作用
想蘊-表象作用
行蘊-意志作用
識蘊-認識作用
と解釈されています。色蘊の説明の後半部分「後には・・・」以下はその通りでしょう。
筆者の解釈は、
色蘊-人間の肉体、つまり認識作用の本体(註2)。
受蘊-見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの感覚
想蘊‐(「あれはバラだ」とする判断のための)知識
行蘊-「バラを取りたい」などの気持ち
識蘊- きれいなバラだ」と認識するの識蘊。
いずれにしましても、受・想・行・識とは、明らかに人間の認識作用ですから、五蘊がモノや人間の構成要素であるはずがありません。
五蘊は仏教の基本的思想です。前述のように「般若心経」の冒頭に「五蘊皆空」とありますね。それなのに「五蘊」の解釈を間違えてどうするのでしょう。
註1「人間もモノの一種だ」と言うのは屁理屈でしょう。
註2「色」を人間の身体(認識作用の本体)とするのが本来の意味で、その後の仏教思想の変化により、認識作用の対象である「モノとコト」を含むようになったのでしょう。つまり、ちょうど六根(眼・耳・鼻・舌・身‐皮膚・意‐感覚作用)に対する六境(色・声・味・香・触《皮膚に触れるもの》- 感覚作用の対象)と同じでしょう。しかし、両者はまったく別であり、混同してしまったらどうにもなりません。